自由主義の推進とこれからの繁栄を請け負う
アジア外交のエキスパート
在シアトル日本国総領事館 総領事 伊従 誠 さん
東西冷戦が終結して間もない1990年に外務公務員になり、主にアジア諸国と日本との関わりを担当してきた伊従さんは、日本のアジア外交のエキスパートです。東南アジアと日本との知られざる深いつながりや、混沌とした国際情勢における日米関係の重要性、さらに総領事としての抱負などについて伺いました。
取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供
伊従誠■1965年、東京都生まれ。東京大学経済学部を卒業後、1990年に外務省入省。アジア太平洋局地域政策課長、国際交流基金総務部長などを歴任。在外勤務はカナダ、インドネシア、フィリピン、ワシントンDCに続き、シアトルで5度目となる。余暇には読書やスポーツ観戦、ワシントン州の自然を楽しんでいる。
経済学を専攻し外交の道へ
2023年10月末に総領事として在シアトル日本国総領事館に赴任して、間もなく1年。伊従さんはシアトルという街をどのように捉えているだろうか。「ボーイングやアマゾン、マイクロソフトなどがよく知られていますが、ITや生成AIだけでなく生命科学や宇宙産業の分野でもスタートアップが数多く活動していますよね。奥が深くて、ワクワクします」。第2のシリコンバレーとも呼ばれるシアトルは、伊従さんの知的好奇心を大いに刺激するようだ。
ひとくちに外交官といっても、専門とする地域や分野は多岐にわたる。伊従さんは、1998年のアジア通貨危機の際に本省で「新宮澤構想」の取りまとめに奔走したり、アジア太平洋地域政策課長としてASEANをはじめとしたアジア外交のかじ取りを担ったほか、インドネシアやフィリピンで経済協力担当参事官や経済公使を歴任するなど、ODA(政府開発援助)を軸にした経済協力の分野に関わってきた。鉄道の敷ふせつ設、発電所や港湾の建設といったインフラ整備や、外国人労働者の受入れ制度など、ハードとソフトの両面から国家間の円滑な関係を後押しするスケールの大きな任務だ。
東京都杉並区で育った伊従さんの子ども時代は、水泳やサッカーなどのスポーツに明け暮れる毎日だった。水泳では中学時代に杉並区第3位に入賞した経験も。地元の都立高校を卒業して東京大学経済学部に進学した伊従さんだが、「あまり勉強はしませんでした」と当時を振り返る。実は大学4年生の時に国家公務員試験を受けるも落ちてしまう。そこで友人に誘われて外務省試験に挑戦し、見事に合格。伊従さんが大学時代を過ごした1985年から89年は、ちょうど冷戦末期で激動の時代だ。「1985年はゴルバチョフが登場し、プラザ合意で円高が加速しました。翌年にはフィリピンでマルコス政権が倒れ(エドゥサ革命)、チェルノブイリ原発事故があり、東京でG7サミットも開催されました。台湾や韓国での民主化、ビルマでの軍事クーデター、天安門事件など、大学時代は国際情勢上の大きな出来事があった時期と重なりました。世の中が大きく変わりそうな空気に満ちていて、外交って面白いかもしれないな、と思いました」
大学のゼミ合宿での一コマ。故・小宮隆太郎教授(後列左)とジェフリー・サックスの論文を読みながら、
国際金融や開発について熱い議論を交わした。前列左が伊従さん
国際金融や開発について熱い議論を交わした。前列左が伊従さん
外務省に入省した1990年の夏、イラクがクウェートに侵攻し湾岸戦争が勃発した。入省1年目の伊従さんは、予定していた夏休みを返上。「早くて終電、普通で午前3時、下手すると朝まで帰れない」という、霞が関の役人として手痛い洗礼を受けた。それでも、テレビのレポーターが外務省庁舎前から連日中継する様子を見て、「ニュースの中心となっている場所で仕事をしているという実感が沸きました」と言う。
▶︎2001年から2004年まで駐在したオタワにて。自宅前を流れるリドー運河は、毎年2月になると天然のスケートリンクになった
1年間の激務に耐えた伊従さんは、1991年7月、晴れて在外研修生としてイギリスのケンブリッジ大学へと赴く。のちに妻となる優子さんとは遠距離恋愛を成就させたが、まだインターネットのない時代だ。「電話は週2回、1回10分以内に留めようと決めていましたが、揉め事があったりすると、月末の請求が何千ドルの世界でした。この話を息子にすると、『お母さんと話すためだけに、なんという無駄遣い!』と非難されます」。2年間の研修を終え、日本に戻ってからしばらくの間は、本省勤務が続いたが、2001年、初めての在外勤務が命ぜられる。赴任先はカナダのオタワだ。小学校1年生の長男と3歳の次男も帯同し、家族4人で海を渡った。任期中にはカナダのカナナスキスでG7サミットが開催され、日本からは小泉首相(当時)が訪問。また着任直後にアメリカで発生した同時多発テロ事件の影響を受け、外交の現場では混乱が続いたが、プライベートでは家族でスキーやスケートに挑戦するなど、カナダの大自然を満喫した。
アジア諸国との関係強化に尽力
ジャカルタ郊外のボゴール宮殿。現在は大統領官邸だが、元はオランダ総督府だった
その後、伊従さんは2度の東南アジア勤務を経験する。2008年に赴任したインドネシアでは、日本の援助の下、大規模な地下鉄プロジェクトが進行中だった。主な移動手段がバイクと自動車だった首都ジャカルタでは、交通渋滞と大気汚染が深刻化。公共交通機関の整備が喫緊の課題であった。そこで日本政府は、日本基準の鉄道技術やノウハウを注ぎ込んだインドネシア初となる地下鉄の敷設を主導した。「確か、何年か前に開業したはずです」と語る伊従さんの表情は誇らしい。2006年のプロジェクト開始から開通まで約13年。現在はジャカルタ市民の快適な通勤の足となっている。
◀︎ インドネシアの古都、ジョグジャカルタにそびえ立つプランバナン寺院にて
日本からインドネシアに「輸出」されたものは、それだけではない。「母子手帳や交番、鑑識も日本式がモデルとなって現地に定着しています」。日本人にとって当たり前の安全・安心な生活を支える仕組みが、海を渡り世界の人々の暮らしに役立っているとは、多くの日本人が知らない事実だろう。在勤中はスマトラ島北部のアチェを度々訪れた。この地域は2004年末に巨大地震が襲い、甚大な津波被害に見舞われた。その復興支援を日本政府が行っており、フォローアップするのも伊従さんの重要な任務の一つだった。元々分離独立運動が盛んで、30年近く内戦状態が続いていたが、皮肉にも災害支援をきっかけに、インドネシア政府と反体制派との間に和平が実現。州知事には元武装勢力の指導者が就任した。「長年闘争に明け暮れていた元ゲリラの知事です。眼光の鋭さは、今でも目に焼き付いています」。対面した時の印象を、伊従さんはこう話す。
スマトラ島沖は2009年9月にもマグニチュード7.5の地震に襲われた。伊従さんは地震発生の翌日に現地入りし、停電、通信障害、ガソリン不足、というサバイバル状況の中、日本の緊急援助隊や自衛隊の部隊の派遣受入れ準備を整えた。「このことは大きな自信になりました。インドネシア勤務時代の一番の思い出です」
インドネシアは世界最大のイスラム国家だが、日々の暮らしはどうだったのだろうか。「毎日5回、街中のスピーカーからコーランが流れるので、イスラム社会にいる感じは強くありました。とはいえ、戒律は中東諸国に比較するとそこまで厳格ではなく、ビンタンビール(インドネシア原産のビール)も人気でした」。一方で、英語がほぼ通じないインドネシアでは、現地の人と意思疎通を図るためにインドネシア語を学ぶ必要があった。「今でも家族全員、片言は覚えていて、ふざけてインドネシア語を使うこともあります」
2015年12月、MILFの本部(アジト)を訪れた際の写真。前列左端が伊従さん。周囲には武装した元ゲリラの姿も
2015年から4年間滞在したフィリピンでも、手に汗握る経験をした。同国のミンダナオ島では、長らくモロ・イスラム解放戦線(MILF:Moro Islamic Liberation Front)が武装闘争を続けていたが、2014年、日本政府の仲介でようやく包括和平合意にこぎ着けた。経済公使として赴任した伊従さんは、着任早々、MILFの本部(アジト)を訪ねることに。「機関銃で武装した元ゲリラがそこら中にいました」。今だからこそ笑って話せるが、このように、外交官の仕事は時として身の危険と隣り合わせなのである。
廃墟と化したミンダナオ島・マラウィの復興支援会議に向かう公共事業道路大臣(中央左)のプライベートジェットにて。
交通の便が極めて悪い地での同乗の申し出に感謝
交通の便が極めて悪い地での同乗の申し出に感謝
フィリピンではインドネシア同様、通勤鉄道の敷設や幹線道路の建設、沿岸警備隊への巡視船供与などハード面での援助に携わったが、ソフト面でも重要な局面に立ち会った。「外国人材受入れ制度」の整備だ。2017年に創設された「国家戦略特区制度」で家政婦としてフィリピン人の受入れが始まり、同じく同年、「技能実習制度」の下で介護枠の受入れも開始された。さらに2019年には「特定技能制度」が誕生する。毎年のように日本国内で新たな制度が発足するたびに、人材を送り出す側の在外公館はその対応に追われた。「フィリピン政府が日本に労働者を送り出すことに前向きだったことは救いではあったが、制度毎に調整しなければならない事項が膨大で、毎回ヒヤヒヤしながらフィリピン側と折衝を重ねました」。少子高齢化社会に突入した日本は、多くの産業で働き手が足りず、すでに外国人労働者なくして暮らしが成り立たないのだ。この現実に目を背けることはできない。
シアトルのシンクタンク「全米アジア研究所(NBR)」主催の安全保障に関するフォーラムで、パネリストとして登壇
優しい眼差しが印象的な日本通のツガデ交通大臣(当時)▶︎
伊従さんは、ドゥテルテ政権の閣僚たちとも親交を深めた。強面で知られたロドリゴ・ドゥテルテ前大統領はミンダナオ島ダバオ市長として名をあげた人物で、側近にダバオ出身者を多く登用した。実はこのダバオ近郊には戦前、約2万人の日本人・日系人が住んでおり、東南アジア最大の日本人街があったことから、閣僚の多くは日本通だった。ドミンゲス財務大臣(当時)もその一人だ。「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康についての考察や、遠藤周作の『沈黙』の奥の深さについて議論を吹っ掛けられました」。というから驚きだ。また、ツガデ交通大臣(当時)も、かつて日本企業と事業をしていたことがあり、毎月のように神田駅のガード下で飲んでいたそうだ。「日本の大臣がフィリピンを訪問する際、『おしぼり』を出すタイミングについて相談されたこともありました。ただ、ODA事業の起工式の日が『大安』じゃないとクレームを言ってきたのには閉口しましたが」。何とも微笑ましいエピソードである。
モンタナ大学に設立される「マンスフィールド記念日本及びインド太平洋研究チェア」の発表式典に出席。2024年5月2日撮影
シアトルから支える日米両国の絆
◀︎ ドミンゲス財務大臣(当時)。フィリピンを離れてからも親交は続いた
今、世界を見回してみると、各地で紛争が起こり、平和とは程遠い状況にある。伊従さんが外務省の門を叩いた1990年当時は、ソ連が崩壊し、自由主義が勝利したかのように見えた。「自由や民主主義、法の支配は普遍的価値だと思っていました。その価値観が現在、世界中で挑戦を受けています」。冷戦の終結から30年余り。国際社会は、新たな情勢の出現により混迷を極めている。「日米両国は基本的な価値観を共有する同盟国です。日米関係の重要性が今ほど増している時はありません」。今年4月の岸田総理の訪米を振り返り、伊従さんはこう付け足す。「岸田総理が米議会で、『日本はこれからもアメリカと共に歩み続ける。それはアメリカに愛着があるからではなく、日本の国益にかなうからだ』という主旨の演説をしました。まったくその通りです」
特にシアトル周辺は、日米関係において重要な位置づけにある、と伊従さんは言う。「日本周辺の防衛に深く関与する全米第3の規模の海軍基地があり、日本有事の際に真っ先に駆け付ける陸軍第1軍団もオリンピア北部の基地に駐留しています。経済的な結びつきが強いだけでなく、安全保障面でも日本にとって非常に重要な地域です」
桜の植樹に合わせて日系人と桜の関係を記した銘板(めいばん)をシアトル市が作製。その除幕式にて。2023年12月6日撮影
2月に移転した最新のシアトル・サウンダーズFC本部施設をオーナーのエイドリアン・ハナウアー氏の案内で視察。2026年にはFIFAのW杯がシアトルで開催される ▶︎
伊従さんは総領事の任務を3つ挙げる。「1つ目は、邦人保護。日本人が住む地域の市長や警察署長と面会し、必要な時に連携できるよう関係を構築しています。2つ目は、アメリカの人たちに日本を正しく理解してもらうように努めること。セミナーに登壇したり、有識者と意見交換したり、また日本文化や和食などを含めたトータルな日本像を積極的に紹介したりなど、米国全体の日本に対する認識の向上に努めています。3つ目は、シアトルを訪れる日本の要人に、この地で起きている出来事を正確に伝えることです」。そのため、伊従さんは政治家や研究者に加え、マイクロソフトやAWSの首脳陣などIT・AI分野の第一人者とも精力的に会合し、知己 を得ている。
伊従さんいわく、シアトルは「社会の在り方を変える街」。ITのみならず生成AIイノベーションをリードする1つの核だと言う。「生成AIの登場は、ホワイトカラーの産業革命と言う人もいます。そうした中で、日本がその波に乗り遅れないようにするには、どうしたらいいのか。ここシアトルで、自分なりに答えを探ってみたいと思っています」
ケビン・P・レノックス准将(前・米海軍第3空母打撃群司令官)宅にて。
同氏は、東日本大震災の発生を受け米軍が実行した災害救援活動「トモダチ作戦」でも重要な役割を担った
同氏は、東日本大震災の発生を受け米軍が実行した災害救援活動「トモダチ作戦」でも重要な役割を担った
知識欲の旺盛な伊従さんが目下勉強中なのは、「核融合」について。「核融合の仕組みや実現に向けての課題などを、専門書を読んだりYouTubeを見たりしながら勉強しています」。その背景には、シアトルを代表する世界的IT企業、マイクロソフトの存在がある。同社は2030年までに「カーボンネガティブ」を実現するという野心的な目標を打ち出した。つまり、自分たちが排出した二酸化炭素の量よりも多くの二酸化炭素を大気中から除去するというのだ。その目標を達成する手段の一つとして、同社は昨年、エバレットに本社を置く、核融合発電を手がけるスタートアップ企業と2028年からの電力購入契約を結んだ。「そうした動きを、シアトルを管轄する総領事として日本からの訪問者に的確に説明できなければなりません」。一見、外交とは無関係に思える核融合に興味を持ち、基本的な原理を理解できるのも、「中学や高校で物理を学んだ基礎があるから」だと伊従さんは言う。役に立たない勉強はない。そのような想いから、シアトル日本語補習学校の中学・高等部2024年度入学式では、10代の若者たちに向けて、このような祝辞を述べた。「皆さんが現在勉強していることは、たとえ今、無意味に思えても、将来必ず役に立つことがあります。それをぜひ覚えていてください」。資源の乏しい日本にとって、人材こそが最も価値ある資源だ。未来の日本を担う若者たちに、伊従さんの想いはきっと届いたに違いない。