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末次毅行さん〜日本調理師連合会師範/日本食普及の親善大使

当地で日本料理店のオーナー・シェフを長年務めた末次毅行すえつぐたけゆき さん。今春、日本食文化の普及および教育者としての次世代への継承を評価され、旭日双光章を受章しました。現在は妻の美苗みなえ さんとモーゼスレイクに住み、活躍の場を若い世代に譲る準備を進めつつあります。

取材・文:楠瀬明子 写真:在シアトル日本国総領事館、本人提供

末次毅行■1944年、鹿児島県指宿生まれ。高校卒業後に板前修業を始め、大阪で辻調理師学校に入る。学校を通じてパリ、コロラド州デンバーの料理店で働くと、さらにワシントンDC、カリフォルニア州を経てシアトルへ。ビューリエンの薩摩レストランを皮切りに、デンバー支店ほか、日光(シアトル)、ビストロ薩摩(ギグハーバー)、和食薩摩(モーゼスレイク)を開業した。現在はモーゼスレイクの職業訓練校で日本料理の指導に当たる。
アメリカに渡ることを夢見て料理人に
旭日双光章の前には、2009年に在シアトル総領事表彰、2016年に農林水産省「日本食普及の親善大使」任命、2021年に同省の日本食海外普及功労者表彰も受けている末次さん。インタビュー冒頭で、「これまでに、ワシントン州内の全カレッジで日本料理のデモンストレーションや指導をしました」と述べる。従来、先輩の背中を見て覚えるという料理人の技術を、アメリカで人々に正面から教えてきたこと、そして数多くのデモンストレーションで日本料理を紹介できたことに、大きな誇りを感じている。
中学生の頃指宿の海を背にして
日本での板前修行時代京都での休日
1944年、鹿児島・薩摩半島南端にある指宿いぶすき 町(現・指宿市)に7人兄弟の末っ子として生まれた。実家は祖父母の代に佐賀から移り、指宿で唯一、味噌としょうゆの醸造業を営んでいた。しかし、末次さんが指宿高校に進んだ頃、事業不振に陥る。東京にいた兄姉を頼って上京し、転入した都立三鷹高校では得意の柔道で活躍した。
防大志望を翻し、料理人を目指すことにしたのは、後にベニハナ・オブ・トーキョーを開くロッキー青木さんのアメリカでの成功を、図書館の雑誌で目にしたことがきっかけだ。高校卒業後は料理人となって、自分もアメリカに渡ると決めた。「思い返せば小学2年の頃、担任の先生から、アメリカでは皿洗いや掃除夫もマイカーを持っていると聞いて驚き、強い憧れを持ったこともあったのです」
辻調理師学校の辻校長といただいた手紙は全て大事に保管しています

板前修業は、伯父が総支配人を務めていた熱海・大観荘を振り出しにスタート。やがて大阪に移り、そうこうするうちに3年近くが過ぎた。本人も認める、せっかちな性分。いつになったらアメリカに行けるのかと悩み始めたところで、「阿倍野の調理師学校を卒業すると、毎年1人は海外派遣される」と耳にした。それならと、板前修業の傍ら、辻調理師学校(現・辻調理師専門学校)で1年間学ぶことに。夜働きながら昼は学校という忙しい日々ではあったが、職場の理解も得られ、時には課題練習に協力さえしてもらえた。「高い授業料の価値は十分ありました」
パリの市場で買い出し
辻調理師学校は、元新聞記者でフランス料理に造詣の深い辻 静雄さんが4年前に開校したばかり。第5期生として同校で習得したことや、辻校長との出会いとその後の交流は、末次さんの料理人人生に大きな影響を与えた。在籍当時の生徒数は約250名。渡米という大きな目標に向かって努力した甲斐あって、学校推薦でアメリカ・デンバーでの日本料理店就職への道が開けた。
2度目の挑戦でかなったアメリカでの就職
シアトル訪問中の母を囲んでの家族写真

「ところが、アメリカ政府からビザが下りないんですよ。経験が足りないという理由で」。がっかりしていると、学校からパリ行きの話が来た。こちらは驚くほどすんなりと渡航が実現し、パリに開店したばかりの日本料理店で働くことに。1966年の話だ。
パリでは、包丁を握ると共に、必死にカタカナでフランス語を覚え、語学学校にも通った。1年半後、日本への帰国は、マルセイユを出港しスエズ運河を経ての船旅。エジプト、インド、香港と寄港しながら40日かけての帰国だった。第三次中東戦争の勃発でスエズ運河が航行不可となったのは、その数カ月後である。
帰国して学校へ挨拶に行くと、例のデンバーの料理店から再び卒業生派遣の話が来ていた。その料理店経営者の姪も、たまたま同じ頃にデンバーへ留学すると言う。今度こそとビザ取得に訪れた東京で顔を合わせた経営者の姪は、後に妻となった美苗さんだ。美苗さんに3カ月遅れて1967年の暮れ、末次さんも包丁と現金135ドルを持って、ついに渡米を果たした。
デンバーの料理店では3年勤務の約束だったが、ほかの都市の料理店も早く見たくてたまらない。1年半を過ぎると、武者修行を願い出た。4,750ドルで購入した念願のマイカー、シボレー・インパラに乗って、シカゴ、ニューヨーク、ワシントンDCと日本食文化の講演とデモンストレーションで回り、DCの料理店に勤務。デンバーの美苗さんには、食費を切り詰めて毎週末に1時間の長電話をかけた。
デンバーに戻ると、半年だけシアトルのレストラン、帝みかどで働くことに。シアトルへ向かう途中のラスベガスで、美苗さんの伯母や友人も立ち会い、美苗さんと結婚。シアトルでは、美苗さんの親戚筋に当たる窪田竹光さん(当時の北米報知社主)、森口貞子さん(宇和島屋創業者、森口富士松さんの妻)らによりレストランで披露宴が開かれた。
デンバーに戻って働いた後、カリフォルニアを経て1972年、再びシアトルに。美苗さんと、デンバー生まれの娘、恵理子さんも一緒だ。以前も働いた帝に勤め、3年間で1万2,000ドルを貯めた。同僚と8人で「日本人魂の会」を作り、タコマを早朝4時に出てシアトルまで全員で走ったのも良い思い出となっている。
「おいしく美しい料理」を理念に
料理人として、ビジネスマンとして、教育者として、シアトルでの多彩な活動が幕を開けた。1976年、シータック空港近くのビューリエンに薩摩レストランを開業し、10年後の1986年には思い出の地、デンバーに支店として200席の大型レストランもオープンした。
料理は、従来の和食にとらわれることなく、材料もソースもいろいろと工夫。「おいしい」のはもちろん、「美しい」日本料理の創作に挑む。ただし、丁寧にだしを取るなど基本は徹底。妥協のない確かな味に、常連客の通う店となった。コミュニティー・イベントや正月行事では、得意とする野菜のむき物を駆使した華やかな飾り付けで場を盛り上げた。1987年のブラックマンデーの余波でデンバー店を閉じることになったのは大きな痛手だったが、その後も切磋琢磨し、美苗さんと共に大小さまざまなレストランの開店と閉店を経験。その喜びも苦労も分かち合った。
ビストロ薩摩の三段重ね弁当味御膳
20年余り続けた個人宅へのケータリングでの料理

オーナー・シェフとしてウェスティン・シアトルのホテル内に大規模な日本料理店、日光(1997~2002年)を共同経営。その後はギグハーバーでビストロ薩摩(2002~2016年)を開店する。並行してノースウエスト航空(現デルタ航空)とユナイテッド航空の機内食を請け負い、アメリカン航空の和食コンサルタントも担った。ファストフード店のビジネスを手がけていた時期も。モーゼスレイクでは、弁当とケータリングを中心とする和食薩摩を開いた。料理の腕は、日本調理師連合会の調理師師範(2000年)、全米司厨士協会の名誉アカデミーシェフ(2001年)として認められた。2002年春には、京都で催された世界司厨士協会の世界会議に参加し、諸外国のシェフとの貴重な出会いを体験した。
2001年日本食の料理人では初めて全米司厨士協会の名誉アカデミーシェフに選出
料理教育とデモンストレーションには、独立当初から情熱を注いだ。1984年からは薩摩クッキングスクールの看板を掲げて出張授業に赴いたほか、コミュニティー・カレッジや職業訓練校でも「シェフ・タック」として指導に当たった。モーゼスレイクでは、2016年からコロンビア・ベイスン職業訓練校の料理プログラムで日本料理を教えている。また、イベントや物産展などで担当した調理デモや講演は数え切れない。「日本食の伝道」を使命に、機会があれば積極的に日本料理紹介に努めてきた。
シアトル日系人会といった多くの日系団体にも携わった。日本語学校維持会では副会長を、シアトル鹿児島県人倶楽部では2018年まで30年近く会長を務めた。日系社会にとどまらず、薩摩レストランのあったビューリエンでは22年もの間、ロータリー・クラブ・メンバーとしても活動した。
1995年には、地元の主だったレストランに呼びかけ、11店をチャーター・メンバーとしてシアトル日本料理店協会を設立。以来、会長を務めてきた。50店余りが参加し、親睦を深め、共通の関心事項についてセミナーの開催なども重ねた。「世代交代や時代の変遷もあり、残念なことに今はほぼ休眠状態。若い世代だと、何でもオンラインという発想になるようで」。それでもなお、会の存在意義を強く信じている。
若い世代へバトンを引き継ぐ
2021年には農林水産省から日本食普及への貢献を表彰された

モーゼスレイクへは2016年に移ってきた。三菱重工業が開発していた小型旅客機のMRJ(三菱リージョナルジェット)の試験飛行地となり、200人もの日本人社員に和食を提供する役割を求められ、思い切っての転居だった。開発が中止された今は店を閉め、前述の職業訓練校での指導に注力する。
「言うんですよ、生徒たちに。私は135ドルだけ持って片道切符でアメリカに来て、これだけのことができた。君たちもしっかり学んでいれば道は開ける、って」。全寮制の連邦政府プログラムで、1年かけて学ぶ生徒たちは真剣だ。「料理の背景に文化あり(Food Behind Culture)」をモットーとするシェフ・タックの下で、料理実習に加えて日本の食文化、そして末次さんが最も大事にしている料理の心も習う。教え子とは卒業後も連絡を取り合い、日本での和食研修制度があると聞けば背中を押し、選考に漏れたと知っては一緒にくやしがる。
今年6月29日総領事公邸で行われた勲章伝達式祝賀レセプションには美苗さんと娘夫婦も出席
モーゼスレイクの自宅デッキにて夏は暑いですがカラッとしていて過ごしやすいですよと美苗さん

念願のアメリカへ来て56年。来年は80歳になる。いつ会っても穏やかな笑顔だが、「実は、気が短くて、けんかっ早いのです。そのため、若い頃には失敗もありました」と告白。しかし「いろんな人に助けられて、ここまで来ました」と振り返る。それは、時に採算を度外視しても一途に進む情熱と料理への真摯な姿勢を買われてのことだろう。板前修行中だった成人式の日の朝に詠んだ歌がある。
二十歳はたとせ の基礎に築くは大願の成就の道は険しからまし
大願の海外勇躍なるも山あり谷あり波瀾万丈の道を、美苗さんとの二人三脚でしっかりと歩み、日本食伝道の役目を全うする末次さん。今後はモーゼスレイクで、「シェフ・タック奮闘記」をまとめるつもりでいる。
モーゼスレイクでは職業訓練プログラムで指導
野菜のむき物を使って日本の花鳥風月を見事に再現
楠瀬明子
福岡県生まれ、九州大学法学部卒。1988年より11年余り北米報知編集長を務め、1993年に海外日系新聞協会・優秀記事賞を受賞。冊子「ワシントン州における日系人の歴史」(在シアトル総領事館、2000年)執筆。