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テリー・タケウチさん/テリーズ・キッチン店主

シアトルで生まれ育ったテリー・タケウチさんが手掛けるテリーズ・キッチンは、ベルビューにオープンして6年。地元の人たちがそれぞれの「おふくろの味」を目当てに集まります。あふれる地元愛、ロックダウン中の苦労、さらに強まった料理への思いなどを聞きました。

取材・原文:イレーン・イコマ・コー 翻訳:シュレーゲル京希伊子
写真:本人、北米報知スタッフ提供
※本記事は『北米報知』2022年3月25日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

テリー・タケウチ(Terry Takeuchi)■シアトル生まれの日系3世。2014年までシアトル・シティー・ライトに勤め、2017年にベルビューのニューポートでテリーズ・キッチンを開業。妻、シェリー・チンさんとの間にひとり息子のジャスティンさんがいる。


Terry’s Kitchen
5625 119th Ave. SE., Bellevue, WA 98006
営業時間:火水日4pm~9pm、木~土4pm~10pm
※バーは11pm(日10pm)まで 定休:月
☎425-590-9545
www.terryskitchenbellevue.com

世界的に有名なレストラン経営者のサムチョイ氏を囲んで2021年
日系にルーツ、地域との強いつながり
新婚時代の両親シゲオさんとユキエさん1946年
祖父母は父方、母方、共に福島県出身。父親のシゲオ・タケウチさんと母親のユキエ・モギさんは日系2世だ。どちらの家族も第二次世界大戦中、それぞれミニドカとツールレイクの日系人強制収容所に送られた。戦後、シゲオさんとユキエさんはセントラル・ディストリクトで新婚生活を始め、4人の男児をもうける。何度かの引っ越しを経て、やがてレーニアビーチに新居を構えた。
男兄弟4人の中で育つ左から本人ゲイリーさんリックさん前列はブライアンさん1960年

シゲオさんは、ボウリング場のインペリアル・レーンズなど、いくつもの職場を渡り歩いた。一方、母親のユキエさんは4人の子育てがひと段落すると、シーファースト・バンク(現バンク・オブ・アメリカ)やYMCAに職を得て、最後はボーイング社で定年まで働く。「父は家族を養うために必死で働いていましたが、子育てを一手に担った母の苦労は相当なもの。特に私はやんちゃ坊主で『テリブル・テリー』と呼ばれていましたから」と、テリーさんは当時を振り返る。
母親の作る手料理や、近所の友人宅で振る舞われる多種多様な郷土料理が大好きだった。「シアトル市内を転々としたおかげで、南部料理のガンボやBBQリブ、フィリピン料理のアドボなど、各コミュニティーでいろんな国・地域の味に親しめました」。テリーさんたち兄弟は、父親の働くボウリング場で時間を過ごすことが多かった。ボウリングやビリヤードに興じ、あるいは友だちと遊び、併設するレストランで食事をした。「そこのハリー・イマムラさんの作るチャーハンが絶品でした。大人になっても決して忘れることはありません」。こうして、幼いテリーさんの味覚と料理への興味が育まれていった。
リトルリーグキャバリアーズのチームメートと1966年

リトルリーグに所属する野球少年でもあったテリーさん。60年代半ばには、驚きのエピソードも。「公園で練習をしていると、白塗りのリムジンから長身の男性が降りてきたんです。貧しい地域に住む少年たちに興味があったのだとか。気付いたら、彼がバッターボックスに立っていました」。その人物こそカシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)氏だった。ピッチャーのテリーさんは三振を取ろうと渾身の力で投球。しかし、バットが何度か続けて空を切ると、すかさずコーチがテリーさんを外野に移してしまった。「今にして思えば、『世界最強の男』から三振を奪った、唯一の日系アメリカ人の少年になっていたかもしれないですね」と、悔しそうに笑う。
テリーさんは音楽活動にも熱心だった日系人を中心に組まれたシアトルインペリアルズ鼓笛隊に所属していた頃1969年
地 元 の RB バ ン ドTamarawではホルンを吹いた後列右から2番目がテリーさん1973年タワーオブパワーの前座を務めたこともあります
勤め人から、地元で愛されるレストランのオーナーへ
20代のテリーさんは、歯科技工士として短期間働いた後、シアトル・シティー・ライト保全部門に転職し、2014年に退職するまで勤め上げた。勤続31年の間には幾度となくポットラックなど社内の集まりが催された。「同僚たちは知らないうちに私の料理の味見係となっていましたが、誰も気付かなかったでしょうね」と、テリーさんは茶目っ気たっぷりに語る。
仕事と平行して、日系二世退役軍人会(NVC)の昼食会準備を手伝うようにもなっていた。皿洗いからスタートして、1年経つ頃には調理場を任されるまでに。食材の調達や下ごしらえ、調理など、大人数を相手にした飲食サービスを実践で学べる、またとない機会となった。ここからテリーさんは、徐々に料理の道に引き寄せられていく。
「調理のスキル以上に、もっと大事なことを学びました。私はようやく、第二次世界大戦で日系1世と2世が多大なる犠牲を払った意味を理解したんです」。ほぼ身ひとつで砂漠地帯に送られた強制収容や、ヨーロッパ戦線に赴いた442連隊での決死の戦闘も、日系人の未来を思えば耐えるしかなかった。「私の家族や親戚は多くを語りませんが、そうした日系人の苦難はアメリカの歴史の一部です。後世に伝えていかなければなりません」
サウスチャイナペリーコーズの名物料理を再現したSCガーリックチキンウィング

毎週、仲間とボウリングに出かけては、ビーコンヒルにあるレストラン、サウス・チャイナ・ペリー・コーズで二次会となるのもお決まりだった。後に共同経営者となる同店オーナーのシド・コーさん、ダン・コーさん兄弟と出会ったのも、この場所だ。2004年に同店がベルビューに移転してからも、テリーさんは客として通い続けた。やがて、大きなイベントがある際は調理場の手伝いをするまでの仲に。この経験から、テリーさんは厨房の切り盛り、フロアと厨房のスタッフの意思疎通、大量の仕込みの要領などを覚えていった。
同店は惜しくも2014年に閉店。テリーさんは名物だったガーリック・チキンウィングの味を忘れられず、また、仲間と語り合える場を恋しく思っていた。そんな時、テリーさんにある考えが浮かぶ。帝みかどレストランなど、閉店してしまったお気に入りの日本食レストランの品々を思い出しながら、「自分が子どもの頃に食べていた、あの味を提供すれば、多くの人に喜んでもらえるのではないか」とひらめいたのだ。そこで、旧知の友人でレストラン・コンサルタントのテイラー・テラオ氏の協力を得て、インペリアル・レーンズのチャーハンやサウス・チャイナ・ペリー・コーズのガーリック・チキンウィングなど、人々の食の記憶を呼び起こすような「懐かしの味」のレシピ作りを始めた。
そして2017年7月、ベルビューのニューポートヒルズにテリーズ・キッチンをオープン。ビジネス・パートナーのキャシー・ミヤウチ氏を始め、多くの出資者、支援者が集まり、腕利きの料理人、フレンドリーなフロア係など有能なスタッフもそろった。開業に漕ぎ着けられたのは、そうしたみんなの力があってこそ、とテリーさんは言う。
テリーさんの狙いは大当たりだった。抜群の地の利もあり、かつての人気レストランのファンがテリーズ・キッチンに通うようになった。そうして瞬く間に、世代を超えて地域の仲間が集う場所として定着した。テリーさんがいつも心がけていることがある。それは、フロアに顔を出し、お客さんに挨拶すること。いつも温かく、居心地が良い雰囲気を保てるのも、このような努力の積み重ねがあってこそだ。誰もがほっとする「家庭の味」は大勢の常連客を虜にし、SNSなどで口コミが広がった今は、他州からのお客さんも少なくないそう。
4兄弟での近影左からゲイリーさんリックさん本人ブライアンさん2017年
パンデミックを乗り越えて気付いたこと
本記事を執筆したイレーンイコマコーと並んで2021年

幼少期から、料理好きな母親から多くのことを吸収してきたテリーさんだが、料理に対する情熱が本格的に芽生えたのは、妻のシェリー・チンさんとの出会いが大きいと言う。シェリーさんの祖母の親戚筋に当たるウィルマ・ウーさんは、インターナショナル・ディストリクトにあった伝説のレストラン、クアン・タックを夫婦で営んでいた知る人ぞ知る存在。彼女たちの助けもあり、何年にもわたって数え切れないほどのレシピを考案してきた。
また、シェリーさんの祖父、ウォルターさんは長年、ダウンタウンのホテル内にあったレストラン、トレーダーヴィックスの調理場で働いた。プライムリブやローストターキーなどのコツを教えてくれたのはウォルターさんだ。祖母のリンダさんからは、伝統的な中華を教わった。ある日、テリーさんがリンダさんにレシピを尋ねると、こんな答えが返ってきた。「レシピなんて、ないわよ。作り方を知りたいなら、今度私が料理をする時に見ていてね」。こうしてテリーさんは、豚足の酢漬けから粽子(中華ちまき)まで、愛情のこもった家庭料理を学ぶことができた。
周囲はテリーさんがどうやって料理上手な「シェフ」になったのかを知りたがるが、テリーさんは決まってこう答える。「私はあくまで『家庭料理のプロ』。専門的な訓練を受けたシェフではありません。修行を積んだプロのシェフたちの足元にも及ばないんですよ」
妻のシェリーさん息子のジャスティンさんと共に2020年
順風満帆の船出に思えたが、2020 年に入ると、新型コロナのパンデミックがレストラン業界を襲う。店内飲食が禁止され、テイクアウトのみでやっていこうと模索するが、先行きが不透明なまま、年内閉店も頭をよぎった。そんな中、親しい友人たちが、GoFundMeを利用してオンラインで寄付を募ったらどうかと提案してきた。他人に迷惑をかけたくない気持ちと、プライドが邪魔をして、なかなか踏み切れないテリーさんだったが、考えが変わったのは「これは自分だけの問題ではない」と気付いたから。「仲間と気軽に食事ができるテリーズ・キッチンに潰れて欲しくないという人たちはたくさんいて、みんなの思いがひしひしと伝わってきました。知り合いだけでなく、見知らぬ人からも多くの寄付が届きました」。テリーさんは自分に寄せられる期待の大きさに胸が熱くなり、涙を流した。「この厚意は一生忘れないでしょう」
テリーズ・キッチンには、著名人の来店も多い。これまでに、バスケ界のスーパースター、フレッド・ブラウン氏やガス・ウィリアムズ氏、ニュースキャスターのローリー・マツカワ氏、トニー・ヴェントレラ氏、ブレディー・ワカヤマ氏などが足を運んできた。テリーさんにとってうれしいサプライズもあった。2020年には、テリーさんの父親、シゲオさんがインペリアル・レーンズで働いていた当時の同僚、故カズ・ヤマサキさんの妻、フジエさんと息子のデイビッドさんが来店した。互いに顔を見ただけではわからなかったが、テリーさんがシゲオさんの息子だとわかると、フジエさんは懐かしさのあまり、テリーさんの手を握って泣き出したそうだ。また、小学校の同窓生たちが訪ねてきたことも。そこにはリトルリーグのチームメートもいて、55年以上ぶりの交流を楽しんだ。こうしてテリーズ・キッチンでは、旧友が旧友を呼び、懐かしい面々との再会が実現している。
最後に、テリーさんから、レストラン経営を目指す人たちへのメッセージをもらった。「夢を実現するために必要なもの、それは情熱です。レストラン経営は長時間労働で困難も多い。でも、心から湧き上がる情熱さえあれば、仕事を仕事と感じなくなります。そして、気持ち良く働ける仲間を集め、お客さんだけでなくスタッフや取引先にも常に愛情と優しさを持って接することが大事」
テリーさんにとって、料理とは自分を表現すること。自分の料理で人々を笑顔にしたいという願いが、テリーさんの原動力だ。「料理が大好き。何よりも、お客さんに楽しい時間を過ごしてもらいたい」。そう微笑みながら、テリーさんは今日もテリーズ・キッチンの厨房に立つ。
Elaine Ikoma Ko is the former Executive Director of the Hokubei Hochi Foundation, a nonprofit that helps The North American Post with projects and events. She is a member of the U.S.-Japan Council, an alumnus of the Japanese American Leadership Delegation (JALD) to Japan, and leads spring and autumn group tours to Japan.