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アーティスト ミシェル・クマタさん

ミシェルさんの作品Diáspora2019年アクリル水彩鉛筆紙カンバス245インチ×3525インチ1927年ミシェルさんの曾祖母サキタカツさんとその子ども孫数人が故郷の三重県梶賀からさんとす丸に乗ってブラジルへと旅立った

アーティスト ミシェル・クマタさん

アートを追求してシアトルから大陸の反対側のニューヨーク、さらには南半球のブラジルへ。日系3世のアーティスト、ミシェル・クマタさんは、日系アメリカ人などをテーマとしたアート制作により自らのアイデンティティーを発見し、表現してきました。ブラジルでは、そこに住む親族への聞き取りを行ったアート・プロジェクトも敢行。ミシェルさんのアートの旅に目が離せません。

取材・原文:イレーン・イコマ・コー 翻訳:宮川未葉 写真:本人提供 協賛:北米報知財団
※本記事は『北米報知』2020年10月23日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

ミシェル・クマタ(Michelle Kumata)■シアトル出身のアーティスト。ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツで美術学士号を取得。『シアトル・タイムズ』紙のグラフィック・アーティストを10年以上経験。また、ウィング・ルーク博物館では展示ディレクターを12年務め、コミュニティーと協力して人々の体験を収集し、心に訴えかける展示にまとめ上げた。作品はこれまで、フライ美術館、センター・オン・コンテンポラリー・アート、バンバーシュート、ノードストローム、そしてニューヨークのソサエティー・オブ・イラストレーターズ美術館などで展示されている。ブラジルの親族を訪ねた日系ブラジル人移民アート・プロジェクトも行う。 www.michellekumata.com

アートへの関心は幼少時代から

地元紙『シアトル・タイムズ』の挿絵を手がけ、全米の文化センターや美術館、ギャラリーなどで作品が展示される一流アーティスト、ミシェル・クマタさん。アートに興味を持ったのは子どもの頃だと話す。「ひとりっ子のせいか無口で内向的でしたが、鮮やかな空想の世界に生きていました。アートで自分だけの世界を作り上げることが楽しかった。今でも、制作に没頭すると時間や空間の感覚が消えていき、われを忘れてしまいます」

ミシェルさんの曽祖母サキタカツさん左と祖母キヌエタカツカワグチさん右1918年ごろ三重県梶賀にてカワグチ家蔵

父親の影響も大きい。ミシェルさんの父親はアーティストで、一緒に絵を描くなどしてアートの手ほどきをしてくれた。「学校に持っていくランチの紙袋に父が絵を描いてくれていました。紙袋を手に、得意になって通学していた頃が懐しく思い出されます。祖母の家には、父がフランクリン高校時代に描いた立派な絵がいくつか飾ってありました」。母方の祖父母のところに預けられることもよくあったミシェルさんは、そこでもアートに親しんだ。「祖母は真っ赤なビーツの残り汁でよく絵を描かせてくれました。母方の祖父母は貧しいながらもやりくり上手で、何でも無駄にしない“もったいない”精神を大切にしていました」

ミシェルさんは、ニューヨークの美術大学、スクール・オブ・ビジュアル・アーツに進む。ニューヨークでの体験は何もかもが初めてのことばかり。「ハイペースな街、多様性のある文化、たくさんの美術館やギャラリーなど、ニューヨークで暮らすこと自体がとても刺激的で勉強になりました」。ミシェルさんは部屋が狭くても気にならず、最低限の物でやりくりしながら過ごしていた。「何もないところから素晴らしいものを生み出すのがアーティスト。私は、たくましく生き抜いた日本人移民の先祖の精神を引き継いでいると感じています」

日系人としてのアイデンティティーを芸術で表現

ミシェルさんの母方の祖父母は三重から米国に移住してきた。つまり、ミシェルさんの母親は2世に当たる。父方は、曽祖父母が広島から米国に移住し、祖父母は米国で生まれたため、ミシェルさんの父親は3世。父母共に第二次世界大戦中、ミニドカ日系人強制収容所で生まれた。「父にも母にも当時の記憶はほとんどありません。母は両親から強制収容について何も話を聞けなかったそうです。1970年代から80年代初め頃までは特に、1世と2世が強制収容について話すことはまれでした。恥や怒り、憎しみの感情、そして忘れてしまいたいという気持ちもあったのでしょう」

Falling2020年アクリル紙32インチ×12インチブラジルに移民する多世代家族が未知の世界へとやみくもに飛び込んで落ちていく様を表現した作品

ミシェルさんの母親の家庭では主に日本語が使われていたが、母親がミシェルさんに日本語で話しかけることはほぼなかったと言う。父親は1世である祖父(ミシェルさんの曽祖父)のところに預けられていたので日本語を母語としていたが、成長するにつれて家庭で主に使われる言語は英語になっていった。「社会に溶け込もう、よりアメリカ人らしくなろうとして、日本語を使わなくなったのではないでしょうか」。ミシェルさんは中学で日本語の授業を取ったが、機会をうまく生かせなかったことを後悔していると打ち明ける。

しかし、ミシェルさんは日本文化やアジア系・日系人と深いつながりを持っている。そのひとつが「太鼓」だ。高校生の頃、地元の日系太鼓グループの演奏を見たミシェルさんは、「これだ」と思った。「太鼓は音が大きく毅然としていて、私の中での日系人の控えめなイメージを破るものでした。太鼓の音は体に直に伝わり、感情に訴えるものです。自分に自信がなかった私は、太鼓を演奏することで力が湧いてくるような気がしました」。太鼓を通じて得たものは、日系人コミュニティーとのつながりと、日系人としてのアイデンティティー、そして誇りだ。太鼓仲間の勧めで、ミシェルさんは、当時『インターナショナル・エグザミナー』紙の編集者だったロン・チュウさんに連絡し、新聞の挿絵の仕事をさせてもらうことになった。高校の最終学年の1カ月間、ミシェルさんは同紙での仕事からアジア太平洋系アメリカ人の歴史と問題について多くを学んだ。

ニューヨークからシアトルに帰って来てしばらくすると、ミシェルさんは、ウィング・ルーク博物館館長となったロン・チュウさんに採用されて、日系人強制収容を認める大統領令9066号についての展示を担当することになった。「強制収容の体験について直接話を聞いたことがなかった私にとって、これが転換点となりました」。アートを通じて日本文化や日系人の伝統を見直すようになったというミシェルさん。日本の昔話の絵を描くほか、シアトルの日本町に活気があった第二次世界大戦前、1930年代当時の日系人の写真をモチーフにした肖像画にも取り組む。また、ベルビューの日系人農民と強制収容をテーマにした大型の壁画も制作した。「自分のアイデンティティーを探り続け、声を上げられるようになりたかったのです」

ブラジルで親族のルーツをたどる

ブラジルにはミシェルさんの母方の親族がいる。ミシェルさんの祖母に当たるキヌエ・タカツさんはカメタロウ・カワグチさんと結婚して1918年、18歳の時にシアトルに移住したが、タカツ家で米国に来たのはキヌエさんだけだ。キヌエさんの母のサキ・タカツさんはキヌエさんの兄弟、妹たち6人を連れて、1920年代後半にブラジルに移民している。最初は米国に移民する予定だったが、1924年の移民法(通称「排日移民法」)によってそれができなくなり、ブラジルに行くことになったのだ。サキさんたちはブラジルで農業労働者として働いた。

ミシェルさんの曽祖父母とその子どもたちリカルドハラグチさん提供

ブラジルへの移民は、ブラジルの歴史的な労働者不足と日本の景気低迷によって後押しされたものだった。16世紀初期から1866年まで、ブラジルには世界のどの国よりも多い推定490万人のアフリカ人奴隷が送り込まれたが、19世紀後半には奴隷制度が廃止に。ブラジルはその後、ヨーロッパ諸国から労働者を受け入れたが、劣悪な労働条件のために定着しなかった。そこで、労働者不足を補うためにアジアに目を向けたのである。20世紀初頭、日本の農村は貧困にあえいでおり、日本政府は移民、主に米国への移民を奨励していたが、その米国は1924年の排日移民法によって日本人や他のアジア人の移民を停止。一方でブラジルには、1908年から1941年までに18万5,473人の日本人が移民した。現在、ブラジルは世界最大の日系人居住地で、2018年の日系人口は約150万人となっている。

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