ジョー・バイデン氏が勝利確実の11月3日の大統領選挙でも大きな争点となり、全米を取り巻く人権運動の高まりは、ますます世界から注目を浴びています。シアトルはもともと人権運動が盛んな土地柄で、特に知られているのがアキ・クロセさんから始まり、ルーサンさん、ミカさんと3代にわたって市民活動リーダーを生み出してきたクロセ家の存在。今回はルーサンさんの目から見た母親アキさんの軌跡をたどりながら、それがどのように子、孫へと引き継がれていったのか、そしてルーサンさん、ミカさんは現在のBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動をどう見ているのか、改めて語ってもらいました。
取材・原文:イレーン・イコマ・コー 翻訳:シュレーゲル京希伊子
写真:クロセ家提供 協賛:北米報知財団
※本記事は『北米報知』9月11日号、9月25日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。
社会の変革を求める活動家の両親に育てられて
偉大な市民活動家であったアキ・クロセさんの苗字である「クロセ」は、ここシアトルでは平和を目指す社会運動、コミュニティー奉仕活動と同義語である。アキさんはアジア系アメリカ人女性として初めてシアトルの公立校に名前が付くほど地域への多大な貢献が認められており、そのアキ・クロセ中学校は今もアキさんの志を受け継ぐ。低所得者向け住宅のアキ・クロセ・ビレッジにもその名が取り入れられるなど、シアトルでの社会運動の歴史を語るうえで欠かせない存在だ。その血は娘のルーサン・クロセさん、そして孫のミカ・クロセ・ロスマンさんに脈々と受け継がれている。
ルーサンさんは、社会運動にはさまざまな形があることを両親から教わったと話す。母親のアキさんはよく自宅の居間で会合を開いた。父親のジュンクスさんは常に他人を思いやり、住む場所や食べる物に困っている知人がいると自宅に招き入れた。その絆は日系人社会だけにとどまらない。シアトルには当時、非白人の住居売買を制限する人種差別的な法律があり、クロセ一家はアフリカ系、アジア系、ユダヤ系が入り交じった地区に暮らしていた。そのことが必然的にクロセ夫妻の人とのつながりや政治的な考えに影響を与えたようだ。特にアキさんは公民権運動に積極的に参加するようになり、それは当時のアジア系アメリカ人女性には珍しいことだった。アキさんはCORE(人種平等会議)シアトル支部の一員として活動し、人種差別的な教育制度や住居売買制度を撤廃するなど、社会的弱者の生活の改善に大きく貢献した。
公民権運動が最高潮を迎えた1966年には、アフリカ系アメリカ人のリーダーたちがシアトル学区の人種隔離制度を撤廃するために抗議活動を行った。当時、アフリカ系アメリカ人の通う学校は予算や教職員が足りず、試験の成績も卒業率も低かった。教育委員会に何度かけ合ってもなかなか動かないため、2日間のボイコット運動が行われた。アキさんはアフリカ系リーダーのロベルタ・バード・バー氏と共に、アフリカ系教会やユダヤ系寺院を始めとするさまざまな宗教団体やコミュニティーと協力し、このボイコット運動を成功させようと尽力した。
この2日間、ルーサンさんと兄弟たちは学校へ行かず、代わりにフリーダム・スクールに行ってアフリカ系アメリカ人の歴史、アート、サイエンスなどを学んだ。その時の経験が若きルーサンさんに刻み込まれた。「平和的な抗議活動を通して市民が立ち上がると、正義と平等を求める人々の声に社会の関心を向けられることを実感しました」
アキ・クロセさんを突き動かしたもの
アキさんは日系2世として第二次世界大戦を経験した。戦時中、日系人は大統領命令により土地や財産を手放し、故郷から離れて収容所で生活することを強要され、人種差別や不正義の問題を目の当たりにすることになる。強制収容所で高校を卒業したアキさんは、カンザス州ウィチタにあるフレンズ大学に進学するため、収容所を出ることが許された。フレンズ大学は平和主義と非暴力を掲げるクエーカー教徒が設立した大学で、収容所に送られた日系人学生も受け入れていた。アキさんは大学を出るとクエーカー系のアメリカ・フレンズ奉仕団に入り、広島と長崎の被爆者救済活動を手伝うようになった。
ある日、年若いルーサンさんは衝撃的な光景を目にする。ワシントン大学病院で治療を受ける被爆者を自宅に受け入れていた時のことだ。ルーサンさんは、その被爆者の背中に漢字の焼け痕を見つけた。原爆の光線で、着ていたシャツの文字が皮膚に焼き付いてしまったのだ。「母は被爆者救済活動を通じて、戦争は悪であり、暴力の伴わない平和的な手段で問題を解決することが必要だと確信したのでしょう。その実現に生涯を費やしました」と、ルーサンさんは語る。父親のジュンクスさんも強制収容の体験者だ。多くの2世たちが当時の悲惨な経験を語りたがらない中、ルーサンさんの両親は声を上げた。人種差別や外国人を嫌悪する風潮が収容所送りへとつながったことから、正義や公正さについて公の場で話し合うことの大切さを実感していたからだ。
シアトル市教育委員会が人種隔離制度を撤廃した頃、教師だったアキさんは主に黒人やアジア人の生徒しかいなかった公立校から白人の多い学校へと移った。白人の保護者の中には外国人への嫌悪をあらわにする人もいて、担任がアキさんになるとクラス替えを要求する親もいた。それでもアキさんは怒りを抑え、生徒たちに平和や正義、自然科学、環境保護、さらに多様な文化を尊重する重要性について教え続けた。こうして、当初は反感を持っていた保護者たちも、いつしかアキさんの味方になっていった。
BLM運動とかつての公民権運動
当時の公民権運動と現在の動きが極めて似ている点は、この国の建国の理念を守るために、非白人の若いリーダーたちが大衆を動かして国の責任を問おうとしているところだとルーサンさんは言う。抗議活動と非服従を通して変革を要求する姿勢は、当時と変わらない。「公民権運動の象徴的な存在、ジョン・ルイスはそのような行為を『善い問題であり、必要な問題でもある』と言いました。私はBLM運動に希望を感じます。私たちの未来は、あらゆる人の尊厳が守られる世界に向かって声を上げて突き進む若い人たちにかかっているからです」
ルーサンさんが初めて学生運動に関わったのは高校在学中のこと。当時はブラックパワー運動、人種に起因する教育格差の是正、アジア・太平洋諸島系アメリカ人の地位向上、さらに反戦運動などの活動が盛んで、平和と人種間の平等を第一に掲げた両親の影響を強く受けたルーサンさんは、他の多くのリーダーの活動に心を動かされた。自分たちのコミュニティー、そしてこの国をより良くするための取り組みに終わりはない、と活動家の誰もが感じていた。ワシントン大学に進学したルーサンさんは、人種差別や貧困問題の改善、ベトナム反戦を掲げた運動に傾倒していく。米軍のカンボジア侵攻に抗議するために高速道路を行進したり、アメリカ先住民の狩猟採集権の保護を訴える集会に参加したりした。中でもアンクル・ボブことボブ・サントス氏と共に、当時のキングドームの前で住民の立ち退きに反対する抗議活動を行ったことは忘れられない。これらの活動の目的はただひとつ。正義を守るため、大勢の人々に弱者の問題に気付いてもらい、社会問題に昇華させることだ。ルーサンさんは多くの会合を主催し、アジア系アメリカ人だけでなく、アフリカ系やメキシコ系、先住民の活動家たちとも交友を深めていった。
70年代後半、ルーサンさんはマイク・ローリー下院議員のスタッフとして働いた。ローリー議員は第二次世界大戦中の日系人強制収容について、米国政府の直接謝罪へと道を開いたひとりだ。補償運動の高まりを背景に、ついに日系人に対する人権侵害を補償する法案が提出される。法案自体は廃案となったが、当時の努力が実を結び、10年後の1988年に市民自由法として成立し、アメリカ政府は戦時中の過ちを公式に謝罪した。
「現在のBLM運動を見ていると、60年〜70年代に私たちが要求した社会の変化の必要性は増すばかりで、理想的な民主主義はいまだに実現されていないのだと実感します」と、ルーサンさん。「世の中を変えるために、危機感や緊迫感を持ってBLM運動を率いる若い黒人リーダーたちに心を動かされます。法律の世界には『正義の遅れは、正義の否定』という格言がありますが、私が若い頃参加した抗議活動では、よくこのフレーズを皆で叫びました。この格言は悲しいことに今でも事実です」
ミカ・クロセ・ロスマンさんが社会運動リーダーになるまで
アキさんから数えて3代目に当たるミカさんは、両親の影響を受けただけでなく、「アーント・ルース」ことルース・ウー氏や「アンクル・ボブ」ことボブ・サントス氏という、シアトルでは伝説的な活動家を師に持つ。両氏に見出されたミカさんは、人種の平等や社会正義を訴え続け、若い世代を率いる優れたリーダーとなった。
「私にとって祖母は、単に『アキおばあちゃん』というだけでなく、小学校で教える『クロセ先生』でもありました」と、ミカさんはアキさんについて振り返る。アキさんは孫のふたり、ミカさんと弟のモリさんをよく自分の教室に連れて行った。そこでミカさんが目にしたものは、床に描かれた大きな世界地図。「祖母は教師として、世界には多様な文化があること、そして世界中のみんながつながって、支え合って生きていることを子どもたちに教えようとしていたのでしょう。平和と非暴力を願う気持ちが、教室から広まっていくことを望んでいたのだと思います」。今でもミカさんが思い出すエピソードがある。自然を愛するアキさんは、昆虫を飼っていた。重なり合った枝に身を潜める虫は、保護色で容易に姿が見えない。それをアキさんは孫のミカさんたちに見つけてごらんと促し、そして見つかった虫を孫たちの手のひらにそっと載せた。「虫は天敵から自分の身を守るために体の色を変えて、存在を消そうとします。人間社会でもそれは同じ。声なき声であろうとも、どんな命でも大切にしなければならないと祖母は教えてくれました」
教育格差の是正、誰でも受けられる質の良い医療、人並みの生活ができるだけの賃金、適正価格の住居、こうした課題に生涯を懸けて取り組む人たちに囲まれて、ミカさんは育った。母親のルーサンさんは、幼い頃からミカさんと弟のモリさんをよく政治討論の場に連れて行った。地域の会合などに顔を出しては、人種の平等と正義、移民の人権などについて人々が討論しているのを聞く。それが幼いミカさんの日常だった。ミカさんは母親のルーサンさんの影響を受け、社会をより良い方向に変革したいという思いに突き動かされる。高校2年生の時、ミカさんは若手リーダーを育成する「ザ・サービス・ボード(tSB)」という1年間のプログラムに参加した。そこでシアトル全域から集まった仲間たちとコミュニティーにおける社会正義について討論し、プロジェクトを計画した。ホームレス・シェルターで食事を配ったり、市営公園の遊具を修理したりする経験を通じて、ミカさんは仲間と共に社会運動を行うことの意義を見出していく。
ニューヨーク大学に進学したミカさんは、マリア・キャントウェル上院議員のワシントンD.C.事務所でインターンの機会を得る。そしてある公聴会で、当時上院議員だったバラク・オバマ前大統領が平和外交の価値について話すのを聞いた。その言葉は平和と非暴力の原則を教え続ける祖母のアキさんと重なった。2007年にオバマ議員が大統領選への立候補を表明すると、何としても手伝いたいとミカさんは決心。早速、その夏劣勢だったアイオワ州に飛び、支持率を上げるための支援活動に没頭した。そして秋になって大学に戻ると、ミカさんはオバマ候補を応援する学生たちで支援組織を立ち上げた。初めての仕事は討論会のチケットを売ること。誰もがオバマ候補の演説を聞きたいと、チケットは飛ぶように売れた。その後、冬から春にかけ、ミカさんは仲間と共に学生寮を回って有権者登録するように呼びかけ、週末になれば予備選挙を手伝うために東海岸の州を飛び回った。民主党候補指名が確実になると、ミカさんは休学してシアトルに戻り、総選挙までオバマ陣営の選挙運動を手伝った。若い学生たちが大勢、熱心にボランティアに励んでいる姿がとても印象に残っていると言う。
こうしたひとつひとつの経験を通じて、ミカさんは「集団の力」を実感した。さらに強制収容所での体験を祖母たちから直接聞くにつれ、法律は目的次第では悪用されることもあると学ぶ。社会を変革していくうえで、どのような「武器」を身に着けるべきかを考えていくうちに、自然と弁護士を志すようになった。さらに法律問題を扱う大統領上級顧問室に職を得て、多くの弁護士と共に働いたミカさんは、法律家であれば連邦政府の権限を利用して真の平等と正義を実現できることを知る。世の中を変革するには個人が集団となって声を上げ、古い制度を撤廃し、正義と平等の価値観に基づいた新しい制度を構築しなければならない。そう確信したミカさんは、ワシントン大学法科大学院に進み、現在は公民権問題を専門とする弁護士として活躍している。
社会正義を若い世代はどう考えるのか
現在、新型コロナウイルスが蔓延し、人々が貧困や人種差別に苦しみ、地球環境も危機に瀕している中で希望を見出すことは難しいとミカさんは言う。しかし、社会を変えるために人々が一致団結すれば、その力は無視できないほど大きくなるとも訴える。「私の家族は3代にわたって市民ひとりひとりの力の重要性を唱えてきました。誰もが世の中を変える原動力になれるのです」
ミカさんはまた「今起きていることを見ると、人種差別はこの国の制度に深く根差していることがわかります」と続ける。「BLM運動に参加する若者たちは、警官による残虐行為や非白人の有罪率が高いことなど、どうしたら制度的な問題を解決できるのかを話し合おうとしています。警察への予算を減らし、その分をこれまで虐げられてきた人たちに回して治安を回復させる。司法制度の改革により定員を超過している収監人数を減らし、代わりに社会の一員として迎える。そのための抗議行動は、有色人種たちの受けてきた被害を修復し、アメリカ社会の全員に真に機能する制度を築くことにつながると信じています」