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ポール・ムラカミさん シアトル日本町活性コミュニティー

ここ数年の不動産ブームで、急激に変化するシアトルの町並み。そんな中、ジャクソン・ストリートに昔ながらの趣を残すビルがある。「KOBO at Higo」「Momo」「かなめ居酒屋」などがテナントとして入り、日本町の中心になっているジャクソン・ビルだ。同ビルオーナーのポール・ムラカミさんに、ビルの歴史や、日本町への想いを語ってもらった。

取材・文:ブルース・ラトリッジ 訳:室橋美佐

ポール・ムラカミ(Paul Murakami)
■ジャクソン・ビル所有者。日系3 世としてキャピトルヒルで生まれ育つ。両親と祖父母は日本町でホテルや商店を営んでいた。父親の従兄妹にあたる叔母から受け継いだジャクソン・ビルに新しい日系店舗を呼び込み、日本町再活性の中心的人物として知られる。

マサ叔母さんとアヤ叔母さんのお店

叔母二人は、とてもお洒落な人たちでした。私たちの家へ遊びに来るときには、いつでも髪を綺麗にセットしていたのを覚えています。冬には毛皮のコートに身を包み、まだ子どもだった私と弟は、二人の叔母のことを「まるで貴婦人だ」と思っていました。とにかく優しかった。子ども好きで、熱心に私と弟の話に耳を傾けてくれたものです。

私と弟は、叔母さんたちの店「ヒゴ・バラエティーストア」へよく遊びにいきました。店にはかすかに防虫剤の匂いが漂っていて。それが当時の私たちには心地よく、叔母さんたちの店は安心して過ごせる場所でした。今でも叔母さんたちのことを考えると、あの匂いを思い出します。

妹のマサ叔母さんはお喋り好きな人でした。時には、姉のアヤ叔母さんと、一緒に店に立っていたカズイチ叔父さんに、「喋ってばかりいないで仕事をしろ」と叱られていることもありました。しかしいま考えれば、時間を惜しまずにお客さんとお喋りしていたマサ叔母さんが、近所の人々を店に呼び込んでいたのだと思います。

ビル運営を受け継ぐ

やがてカズイチ叔父さんもアヤ叔母さんも亡くなると、マサ叔母さんが一人で店に立っていました。叔母さんたち兄弟姉妹には、誰にも子どもがいなかったのです。2000年を過ぎた頃から、マサ叔母さんの体も徐々に弱っていきました。物忘れがひどくなって、請求書の支払いを忘れていたり。私は週末に店を訪れては、会計の手伝いをするようになりました。いつしか、叔母さんからすっかり色々なことを任されるようになりました。建物はすっかり老朽化していました。「屋根、電気、上下水道、この3つが建物の基本インフラだから、そこから直していこう」とマサ叔母さんに説明をして、少しずつ手をつけていったのです。屋根や下水管を取り換え、古くてすぐに停電していた電気系統を新しくして、といった具合に。

修復したビルに最初にテナントとして入ってくれたのは、現在のMomoのオーナーである、レイ・アン・シラミズです。当時はコピーライターをしていた彼女が、2階のオフィスを使ってくれました。若くてエネルギッシュな彼女は、日本町の歴史、そしてジャクソン・ビルの歴史に関心を寄せてくれました。2003年にマサ叔母さんの店を閉店した時には、店の整理に進んで力を貸してくれました。

こんな流れの中で、私も決断をしました。当時勤めていたキング郡公衆衛生課での仕事を辞め、ジャクソン・ビルの管理をフルタイムで行うことにしたのです。

ジャクソン通り沿い6thアベニューとメイナードアベニューの間にあるジャクソンビル今年8月26日には当ビル店舗が中心になり日本町ナイトを開催予定

KOBO との出会い

私はサンフランシスコにある「Ichibankan」という雑貨屋がとても好きで、その店を呼び込めないかと考えていました。サンフランシスコへも足を運んだりして、可能性を探っていました。そんな折、友人のテリー・タテウチがKOBOの話を持ってきてくれたんです。「KOBOのビンコとジョンが、ヒゴ・ストアー閉店後のスペースに興味を持っているよ。ヒゴの歴史を継続していくことにも」と。

それが今のジャクソン・ビルにつながる最初のきっかけでした。KOBOとの出会いで、叔母から受け継いだジャクソン・ビルとヒゴ・ストアーの歴史を残し、日本町らしいビジネスに人々が集まるような場所を作っていく、そういう方向への道筋ができたんです。KOBOは、ジャクソン・ビルのアンカー店です。

KOBOの開店はまさに、「みんなの」プロジェクトといった感じでした。ビンコとジョンが友人たちも巻き込み、壁を塗り替えたり、電気を取り換えたり、キャビネットや家具を新しくしたりと、大がかりな作業。多くの仲間が、もちろん私と弟も含めて、毎晩遅くまで一緒に作業しました。実に楽しい時間でしたよ。

日本町を失いたくない。集まった新しい仲間たち

現在のMomoのオーナーであるレイ・アンが、いつか自分の店を開くという夢を持っていたことは知っていました。だから、いつかここで店を開いてほしいと約束していたんです。1階で眼科を営んでいた老夫婦がクリニックを閉めて、ほどよいタイミングでスペースに空きが出ました。コンクリートの壁に色を塗って、デモ商品を置いてみると、なんともいい感じの店になりそうでした。ここでもまた、レイ・アンの仲間が大勢集まっての共同作業になりました。旦那さんのトムはグラフィックデザイナーなので、デザイナー仲間が壁や棚のデザインをしたりして。まさに、みんなの愛がつまった作業でした。誰もが、「日本町の再生」というアイディアに心をおどらせていました。日本町を失くしたくなかったんです。

かなめ居酒屋は、かつて「たこ八」という日本食レストランがあった場所でした。たこ八のオーナーもまた年老いて、店を閉めることを考えていました。私はどうしても、また日本食のレストランを呼び込みたかった。そこに現れたのが、トッド・クニユキです。トッドの義兄は、日本で居酒屋店舗のデザインをしていました。雑誌でその居酒屋デザインを見ると、なんともクールで。かなめ居酒屋の店舗は、トッドと彼のお義父さんが、たくさんの資金、そして彼らの「血と汗」をかけて作り上げました。この居酒屋と、焼酎バーは、日本町の新しいアクセントになりました。

6thアベニュー通り側に「Osami」という床屋がありました。昔からあった店舗で、彼らが閉店した時はとても寂しかった。Osamiのオーナーには、床屋のスモックも、髪をとめるクリップも、古い看板も、思い出として何もかも残していってもらった。この店舗はしばらく空いていたけれど、2016年にブライアン・ジャガーが「パイオニアー・バーバー」という新しい床屋を開店してくれました。ブライアンは私たちと同じパッションを持っていて、今ではすっかり日本町の新しい仲間です。Osamiの古い看板は、今ではブライアンの店の中に飾られています。

今、私たちは「フレンズ・オブ・ジャパンタウン」というグループを作っています。今年8月26日には「日本町ナイト」というお祭りを開催します。日本町では毎年夏に祭りが行われていた。そんな過去の記憶を思い起こそうという取り組みです。

歴史と今を残していく

私の父は、メインストリートと5thアベニューが交差するエリアで生まれ育ちました。母はイェスラー通りで育ちました。母はこの通りのことを、昔ながらの呼び名で「スキッド・ロード(*)」と呼んでいました。母方の家族は日本町でホテルを経営し、その傍らでクリーニング業も営んでいました。日本町中のホテルのリネン類をクリーニングしていたそうです。この日本町は、私たち家族にとっての故郷なのです。

戦時中、私の両親はミニドカ強制収容所へ行きました。父は第442連隊戦闘団へ志願して、ヨーロッパ戦線に参加しました。父は戦争前にはSand Point Naval Base(シアトルにかつて存在した海軍基地)で働いていたんです。しかし戦争がはじまると解雇されたので怒りを感じ、強制収容所へ入れられるとすぐに兵役志願をしたそうです。祖母と叔母たちは、志願を取り消すように試行錯誤したらしいのですが。

今は私にも大きくなった子どもたちがいます。やがては彼らの世代へ引き継ぐことになります。「テナントを大事にすること。もちろん利益は手にするのだけど、そこに集まる店やコミュニティーを大事にしてほしい」と伝えています。
このジャクソン・ビルが壊されて、新しいビルが建てられるようなことは考えたくない。歴史と今を、残していきたいと思っています。

*イェスラー通りは19世紀にシアトルが林業で栄えていた頃、丘の上で撮った木材を港へ運ぶ道筋であった。そのことからスキッド・ロードと呼ばれていた。

オリジナルの英語インタビュー記事は、北米報知6月1日号をご覧ください!