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War Bride 〜「戦争花嫁と呼ばれて」〜 タコマ日本人コミュニティー教会のみなさん

「外国だから怖いとか、何にも考えないまま来てしまったの」
ジェイルストフ貞子さん

東京・早稲田で生まれ育ち、上野で働いていた貞子さん。当時の月給は3,500円ほどだった。立川・砂川米軍基地で働く知人から「そんな安い給料で働いているの? 基地なら1万円以上もらえるわよ」と紹介してもらったのが、基地内にある食堂のウエートレスの仕事。1956年当時、基地内で働く日本人は大勢いた。夫のアレンさんとは、その時に知り合った。「最初は金髪の人なんて、と思ったんですけれど(笑)」

アレンさんと東京立川の写真館で

米軍基地内の生活水準は高く、一般的な日本人のそれとは大きな隔たりがあった。食堂で働く貞子さんは、自分が食べたこともないようなフライドチキンなど、残飯が何でも捨てられていくのを見て、「なんてもったいない!」と思っていた。「家に持って帰りたくても、日本人は基地を出る時、ゲートで全身をチェックされる。服の中に隠すことさえできなかった」。そんな貞子さんにとって、車を持つアレンさんが、とても魅力的に映った。「アメリカ人と一緒に車に乗っていれば、チェックなしでゲートを通過できるので、好きなだけ食べ物を持って出られる!って思ったの。あの頃は食べる物がなかったから。夫とは、そんな始まりでした」

結婚してワシントン州に来てからも、それほど辛いと感じることはなかったと話す貞子さん。「ワシントン州は、日系1世、2世の人たちがすごく頑張ってくれていた場所。日本人は当時から信用があったから、『ジャパニーズ』と言えば、すぐに雇ってもらえた。日系コミュニティーの先人たちには、本当に感謝しています」

1959年カリフォルニア州にてアレンさんの両親と