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静かな戦士たちに捧ぐ~日系2世復員軍人の声~

姉妹誌『北米報知』にて2003年に連載されていたのが、当時はまだ健在だった2世復員軍人の方々から生の声を集めたインタビュー記事「静かな戦士たち」。同紙で昨年11月から再掲載が始まり、大きな反響を呼んでいます。執筆したのは、本誌連載コラム「みきこのシリメツ、ハタメーワク」でおなじみ、北米報知元ゼネラル・マネジャー兼編集長の天海幹子さん。連載時の裏話と共に、2世復員軍人たちがそれぞれ背負う歴史について紹介してもらいます。

写真:『北米報知』より転載

押さえておきたいキーワード

●442連隊(※1)
1942年2月、フランクリン・D・ルーズベルト大統領(当時)の発令9066号の下、西海岸では11万人以上、シアトル市近辺では約7,000人の日本人、日系人が強制退去となり、収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの2世たち。未来の世代で日系人への偏見をなくせるよう、志願兵となった者も多く、ミニドカ収容所からだけでも300人以上の2世が志願したと言われている。日系人のみで編成された442連隊はヨーロッパの激戦地に送られ、ほとんどの青年たちは生きて帰って来なかった。

●ツーリレーキ/ミネドカ(※2)
カリフォルニア州ツールレイクおよびアイダホ州ミニドカ収容所のことで、当時の1世、2世の発音のカナ書き。現在の表記は「ツールレイク」「ミニドカ」だが、「ツーリレーキ」「ミネドカ」は単なる地名ではなく「収容所」を指し、彼らの特別な感情がこもっている。

●No-No Boys(※3)
1943年2月、収容所で暮らす17歳以上の全ての日系人を対象に出所許可申請書(Application for leave clearance)の提出が求められた。この別名「忠誠登録書」では、第27項:米軍に入隊し、いかなる土地でも戦闘に参加することを誓うか、第28項:日本の天皇への忠誠を否定し、合衆国に対して無条件の忠誠を誓うか、の2項目にYesかNoで回答しなければならず、「No」と答えた者は「No-No Boys」と呼ばれ、過酷な環境にあるツールレイクの収容所に送られた。日系コミュニティーの中で少数派となった彼らは反米的な「不忠誠者」と見なされ、厳戒態勢を敷かれる中で隔離された。

●帰米2世(※4)
日本からの移民1世を両親に持ち、幼少期に両親の国、日本に滞在し日本の教育を受けアメリカに戻った2世たち。

ふたつの文化に挟まれて

日系2世で構成された442連隊は米国史上最多の勲章を受けた名誉戦傷章のパープルハートは9486人が獲得写真はパープルハートを2度受章したホリカワさん

2000年から2005年まで北米報知に籍を置き、「静かな戦士たち」というテーマで回顧録を1年間連載した時にインタビューした2世復員軍人の方たちは、私の大切な「心の宝物」である。控えめな1世の親から受け継いだ価値観、他人に迷惑をかけないこと、忠誠を尽くすこと、ふたつの文化に挟まれた苦悩からくるピースメーカー、一見無表情で怖そうな容姿の内に秘められた温かさと思いやり……。442連隊※1として同じ戦争に加わった元兵士たち、それまで固く口を閉ざしていた彼らが、それぞれのストーリーを語ってくれた。その時の裏話である。

2002年、2世復員軍人会(NVC)の理事をしていたトーシ・オカモトさんが北米報知オフィスに現れ、残り少ない「2世ベッツ」の生の声を記事にして欲しいと依頼された。リストは40人ほど。話したがらない方、認知症をわずらってしまった方を抜かし、年長者から2時間に限定してインタビューを始めた。主旨は、アメリカでも一般にはあまり知られていない442連隊とMIS(米軍諜報部員)の史実を英語でインタビューし、日本語で日本の国、日本人に届けることと、彼らの言いたかったことをそのまま記録として残すこと。あえて面白おかしくは書かなかった。

今読み返してみると私の稚拙な文章はさておいて、それぞれの元兵士の思いと人柄がよみがえる。

今年6月3日日系2世兵士の偉業をたたえる記念切手が発売442連隊として従軍したハワイ出身のシロクヤマモトさんをモデルに第100歩兵大隊442連隊のスローガンとなったゴーフォーブローク当たって砕けろの文言が入る

「トーシ、次はあなたの番よ。いつがいい?」とオカモトさんに電話した時、意外なことを言われた。「みきこ、僕はまだ準備ができていないんだよ」。どんな準備が必要なのか問うと、「いや、あんたには悪い評判があってね」と言う。「つまり、あんたがインタビューをするとだね、みんな死んでいくんだよ」。その頃13人中4人亡くなってしまった。いちばん初めのディック・ナイトウさんは当時92歳だった。元MISとして新日本国憲法の草案に寄与したジョージ・コウシさんも92歳で、彼の話が新聞に載る3日前に亡くなった。脳溢血で倒れた方もいる。NVC ホールの日系人記念壁除幕式でオカモトさんに会った時、「そのうち準備ができると思うよ。いつかね」と言ってしっかり手を握ってくれた。

戦争体験に加えて、収容所から軍隊に志願、それによって家族がふたつに割れてしまうような辛い目に遭っても、皆一様に「自分はラッキーだった」と人生を肯定的に見て、そして442連隊の一員であったことに計り知れない誇りを持っている。亡くなる2週間前のインタビューで元MISのコウシさんには「ご自分の人生を振り返って、どうお考えですか」の問いにひと言、「良かった。悔いはない」と即答された。インタビューした元兵士が亡くなってしまうのは、高齢というのもさることながら自分の一生または半生を振り返り、終止符のようなものを打ってしまうからなのだろうか。そして私はその機会を彼らに与えてしまったのだろう。こうして、私のインタビューはMISの3人の方を最後に、終わってしまった。

星条旗 Star-Spangled Banner

アメリカの国歌を聞くたびに、私の頭にはある光景が浮かぶ。実際には行ったことも見たこともないイタリアの戦場だ。10人の442連隊の2世兵士たちにインタビューした話を基に、頭の中に勝手に作り上げた私の世界である。この歌の一行一行に彼らの言葉がよみがえり、顔が浮かんでくる。

後述のロバート・サトウさんいわく、そこは「この辺り(アメリカ北西部)と似ていて杉の木が多く、切ってしまうと隠れる場所がなくなる。冬は同じように雨が多くて寒い」場所で、敵陣を奪い掲げた星条旗が夜明けの薄い光の中で雄々しくひるがえっている。紺色の空が次第に茜色に変わっていく中、星条旗を見つめているのはジョージ・モリヒロさん。「戦争はね、人の殺し合いではなくて土地の奪い合いのために兵士が前進するんだ。夜のうちに谷間を渡り低地を横切り、高地を占領して昼間に眠る。敵も前進するから味方は後退する。その繰り返しだ。でも442連隊は決して後退はしなかった」。戦火の交わる「蛸壺壕には無神論者はいない」と確信する敬虔なキリスト教信者のポール・ホソダさん。「今生きるか死ぬかは、人間のコントロール下にないってこと、みんな知っているからね」。神の下には皆同じ人間で、それは神からのギフトだと信じるホソダさんは「日系人は他の移民と同じように信頼できる人種であるということを、移民になれない両親のために証明したかった(1924年の排日移民法によって、日本人や他のアジア人の移民は停止されていた)」。そしてそばには、大砲部隊で40パウンドのラジオを運ぶ小柄なアート・ススミさん。目の当たりに戦死した戦友を手厚く葬れなかったとの思いから、戦後は葬儀屋になった。「(亡骸と同じ屋根の下で眠るのは)怖くなかったですよ。戦争で周りに死んだ人をたくさん見てましたからね。でも葬儀屋は戦争と違って亡骸だけでなく遺族にも対応するんです」。戦場で向こうの手順がわかってくると、「1発目、2発目。次か?」と思う時の恐怖は「身体全体が、押さえている鉄兜の中に入り込んでしまうかと思われる」ほど。「母の千人針とチェリー(妻)からの分厚いラブレターの束とに助けてもらった」のはミン(ミノル)・ツボタさん。後ろのポケットに入っていたため炸裂弾の破片は貫通しなかった。千人針はツーリレーキ※2の収容所でツボタさんの母親が女性に会うたび、ひと針ずつ頼んで回ってできたものだ。「寅年の人はひと針以上縫ってもいいんですよ。虎は強いから縁起がいいでしょう」

兵役時のツボタさんと母が息子の無事を願い届けた千人針新しい米袋を利用した帯はしっかりと形をとどめている

フランスでドイツ軍に1週間包囲されて動けなくなっていたテキサス大隊(141連隊第1大隊)救出のために送られた、2世兵士からなる第100歩兵大隊、442連隊は211人を助け出し800人の死傷者を出した。そのひとり、先述のナイトウさんはドイツ軍に右足を粉々にされ、戦場で7時間から9時間、救助を待っていた。「もう二度とアメリカの土を踏むことはないと思いました」。だが救護戦艦で帰国の際、肝炎を併発して朦朧としていた時、甲板から「ほら、ディック。自由の女神が見えるぞ」と戦友が抱きかかえて見せてくれた。安堵の涙でぼやけたその像の向こうに、諦めかけていた「ホーム・スイート・ホーム」の輪郭が次第にはっきりとしてきた。

戦後、ホワイトハウスに招待され、「あなたたちは敵と戦っただけでなく、この国の偏見とも戦った。そして勝利を獲得したのです」とハリー・トルーマン大統領(当時)にたたえられた2世兵士たち。アメリカ史上、最多の勲章を授かった連隊だった。

O say does that star-spangled banner yet wave

O’er the land of the free and the home of the brave?

(戦火の飛び交う戦場に)彼らの立てた星条旗は、この自由の国、勇敢な兵士たちの故郷の上に今もなお、ひるがえっているのでしょうね

アメリカ国歌の最後のフレーズで、この曲は2世兵士のために作られたように錯覚してしまう。それまではアメリカの「戦争の勝利」をたたえる歌だと思っていたが、実は「勇敢な兵士たち」をたたえる歌だったのだ。彼らに会った後では「星条旗」の持つ意味がもう少し深く胸にこたえる。

タカハシさんの妻ジューンさんは同じくミニドカの高校出身2003年8月収容所跡巡礼の旅に夫婦で参加した手に持つのは1世2世3世を有刺鉄線で結び付けるミニドカのロゴが付いた記念品の石

それを教えてくれた方が、またひとり亡くなってしまった。442連隊上級曹長のサトウさん。2003年のインタビューの直後に脳溢血を患い、2010年8月に2度目の発作、そして翌9月、帰らぬ人となった。ちょうどバスでのミネドカ※2の巡礼の旅の最中、久しぶりに会った収容所で過ごした仲間と楽しく歓談し、ホテルに帰り発作が起こったとのこと。お茶を入れてもらい、始まったインタビューでは、テキサス大隊救助に向かった武勇伝に花を咲かせた。442連隊、第100歩兵大隊が最前線に使われてしまったのは「自分たちの成果が逆にあだになってしまった」から。祖国アメリカへの忠誠を誓った2世兵士たちは、皆同郷で家族のように結束が固かった。そして闘志に燃えていた。「No-No Boys」※3ばかりが脚光を浴びて英雄のように扱われているが、1988年にロナルド・レーガン大統領(当時)が謝罪し、政府が日系人に対しての賠償補償金を決定したのも、数々の戦功により史上最多受章となった2世兵士の功績がなかったら実現しなかったと力説されたのが、まだ昨日のことのように思い出される。一度目の発作の後に会うと車椅子だったが、利き手のほうで私の手を握ってくれた。温かい、大きな手だった。

追悼会の前日、夜空を見上げるとまたひとつ星が輝いた。もう病気とも戦わなくていい。頑張りましたね、ありがとう。安らかに、ただ静かに日系人が作る歴史を見守っていてください。ご冥福を祈ります。

MISになった帰米2世と東京裁判

「『勝てば官軍』だけが戦争に負けた者を裁くのは不公平だとか。広島に原爆を落とした、それで何十万人という市民が死んだ、こういうことに関わった人も裁判にかけないといけないだとか。そう言う人がいるけれど、アメリカは『官軍』だからしょうがないんだよねぇ。そういうことをね、あの当時、東京裁判で言ったアメリカ人もおるのよ。本当はねぇ、判事っていうのは、連合軍以外の人がやるべきだと」。日本降伏後、B級戦犯裁判にアメリカ軍属の調査官として加わった松井 尭さんの言葉だ。

また、米進駐軍と共に日本に渡り東京裁判で法務官として活躍した元MIS軍曹、先述のコウシさんは「裁判そのものは公平だった。でも弁護団は言いたいことを十分に言えなかった」と言う。「アメリカ側から見たら公平な裁判だったし、そのために双方努力したんですよ。一緒になんもかんもした」。コウシさんはダグラス・マッカーサー元帥の下、新日本国憲法の草案にも寄与。東京裁判では日本人の弁護団(日米20人)と一緒に日本側の弁護をし、「チョット変な状態でした」と心の内をのぞかせる。彼の下にいた20人のMIS部員が協力した。

戦後の日米両国をつなぐ貢献により日本政府から勲章を受勲する2世復員軍人も少なくない写真は日本政府より勲三等瑞宝章を受章した元MISのコウシさん

アメリカの国籍を持つ、日本人の心がわかる日系2世にしかできない職務だった。戦後の日本早期復興成功の陰に、どれだけ帰米2世※4の努力があったのかは見過ごされている事実だ。

MISはほとんどが帰米2世だ。当時、2世は日本語習得のため日本の親戚に預けられることが多く、幼少時から両親と離れて過ごす。太平洋戦争が勃発し、アメリカへ帰れなくなった2世、逆に日本に両親が残り、ひとり帰米していた2世、同じ家族の中でも離ればなれになった長男と次男。収容所内で帰米2世のいる家庭では家族の中でも意見が違い、親が大変な思いで家族をまとめていた。「この戦争が家族をバラバラにしてしまったんですよ」。442連隊のナイトウさんは述懐する。

当時の日系社会が、収容所に残った「No-No Boys」と志願兵の「Yes-Yes Men」に分断されてしまったのは周知の事実だ。「日本人だからと収容所に放り込んでおいて、今度はアメリカ人だから戦争に行けか? 冗談じゃない」と抵抗した「No-No」の意見は、大和魂を持った者ならよくわかる。だが、この土地で子どもを生んだ者なら、2世兵士の父親の気持ちもわかる。「ここがおまえの祖国なのだから、アメリカ人として立派に戦って来い」と。442連隊に志願したナイトウさんは戦後60年もの年月が経ち、「No-No」の気持ちがようやくわかったと言う。「彼らも僕たちと同じように、人間の権利に対して戦っていたんですね。違ったやり方でね」

ジミーカナヤさんは442連隊で衛生兵として出陣ドイツ軍の捕虜となり3度の脱走を試みた体験を持つ写真は半世紀連れ添った妻キミさんと

日本語の堪能な2世兵士たちは442連隊に配属されず、軍の中で日本語教師を務めたり、翻訳課に配属されたりした。日本人捕虜の通訳のためにフィリピンに送られた岩本義人さんは、日本人に間違えられて射殺されそうになったこともある。戦後は日本で通訳として米国兵の刑事裁判に関わった。その頃、幼少期を過ごした熊本の親戚の家に行き3番目の兄とも久々に会えた。「兄は本当に日本の軍人のようでした。お互いに礼儀正しくしようと努めていたようです」。日本兵としてマレーシアで負傷したその兄と、アメリカ兵として行ったフィリピンでマラリア感染した弟は、ただ黙って縁側の陽だまりで休養していたと言う。

先述の松井さんも終戦後は日本に帰り、「故郷」の両親に12年ぶりに会った。4歳下の弟は日本軍としてガダルカナルで戦死したとその時初めて知った。「惜しいことをしたとママが泣いとった」。兄弟皆アメリカで生まれたが弟は両親と共に日本に残り、戦前アメリカにひとり帰った松井さんには、複雑な心情を表す言葉がない。

日本人の価値観を持った帰米2世のエピソードとして松井さんは「パンパンガール」の話をしてくれた。銀座のダンスホールは午後6時以降に進駐軍が使うため、近辺のガード下に日本人の女性が待ち伏せし、松井さんたちが通りかかると「兵隊さーん」と声をかける。「『なんだおまえらは。帰れ』って叱り散らすと、『私たちは敗戦国の女性ですわ』って、帰らない。『それじゃあ金やるから帰れっ』て言ったら帰ってった」。松井さんは「日本人の女性がそんなことをするなんて恥ずかしいと思って帰らせた」と言う。また、銀座の露店では勲章を売っている現役軍人がいた。戦争で苦労して得た勲章だと思った松井さんは、「こういうの、売らんでください」と言って3倍代金を払い、勲章は持って帰れと言ったが、「あんたにあげます。あんたみたいな人は今まで見たことがない」と、涙を流して別れた。後日、勲章を返しに行ったが、その人には二度と会えなかった。松井さんは代わりにその勲章を、今も大切に保管している。松井さんの「お堅い軍人」の面ざしの陰には、帰米2世の苦悩と誇りが見え隠れする。

戦争が残した傷

エディー・ホリカワさんは戦後、MISの勧誘を辞退し、ヨーロッパにいた。戦争が子どもたちに及ぼす影響を目の当たりに見て、嘆いていた。「子どもたちが食べ物をせびりにくるんですよ。鍋を持ってね。白人の兵士たちは子どもたちを邪険に扱ったり、目の前でわざと残り物をゴミ箱に捨てたりしていたけれど、僕たち2世兵士はひとりひとりに少しずつ分けてあげました。アメリカの収容所にいる、日系人の子どもたちだと思ってね」。彼らの経験談からは一様に、アメリカ人としての正義感、父母から受け継いだ日本人の高潔さ、2世兵士の誇りが感じられる。

兵役時のホリカワさんシアトルの日本町に生まれ父親はホリカワハードウェアカンパニーを経営していたフランスで足を負傷しパープルハート受章につながったが戦後も杖に頼る生活を余儀なくされた

「僕はね、戦争の話をするのが辛いんです。今までもずっとそうだった」とインタビューに応じながら途中で話を止めたのはミツル・タカハシさん。体の傷は治っても心の傷は癒えず、戦争が19歳の青年に落とした影は半世紀以上経っても拭えない。戦後の話に切り替えると快く話してくれた。最近行った日本からの帰りの飛行機で隣席した片腕の老人は、元日本軍の傷痍軍人だった。「その人は442連隊のことを知っていて、『日本人として恥をかかなくて良かったなぁ』と褒めてくれたんです。とても心がこもっていました」と表情が少し和らいだ。

それまで固く口を閉ざしていた2世兵士たちは高齢になり、少しずつ体験談を語り始めた頃だった。初対面のたった2時間で、堰を切ったダムのように流れてくるストーリーと彼らの感情は、ともすれば圧倒され、一緒になって涙したこともあった。彼らの信念と強い意志を直接聞けたことの光栄さ。この貴重な経験をどのように生かしていったらいいのだろう。私たちが現在、アメリカで平和に暮らせるのも、じっと耐えてきた「静かな戦士たち」からのギフトなのだ。後世に伝えること。そして戦争をなくさなければならない。戦争を、体を張って通り抜けてきた彼らだからこそ、平和を願う気持ちは大きい。

13人かな戦士たち

442連隊

リチャード・ナイトウ

ワシントン州ケントに生まれ育ち、農作物の肥料を扱う店を経営。ミニドカへ収容されると、白人の妻と離ればなれに。米軍入隊を志願し、1943年9月15日、442連隊としてイタリアへ向かうも、ピサ近くで爆撃に遭い、右足を負傷。救護戦艦で帰国した。戦後はシアトルで宝石店を始める。

ロバート(ボブ)・サトウ

442連隊で上級曹長を務めた。タコマの南、ファイフの生まれ。戦争が始まり、農業を営んでいた家族と共にミニドカ収容所へ移る。高校を卒業し、徴兵されたのは1944年。6月からミシシッピ州シェルビー軍隊教習所で2カ月間の訓練を受け、いきなりイタリアの激戦地へ。11月にはドイツのライン河から50マイル地点で前線を張った。

ジョージ(ガンジロー)・モリヒロ

タコマ近くのファイフに生まれ、戦争が始まるとミニドカ収容所を経て入隊。ミシシッピ州シェルビー軍隊教習所で訓練後、イタリアに入り、17歳で442連隊の自動ライフル隊として最前線に。自動ライフルは21パウンドあり、普通の銃の2、3倍の重さがあった。サトウさんとは同期に当たる。

アート・ススミ

シアトルの日本町に生まれ、ウエスト・シアトルで高校を卒業。父が営む花屋を手伝っていたが、戦争でミニドカ収容所へ。442連隊の大砲部隊に所属し、40パウンドのラジオを運ぶ係になる。テキサス大隊救出時の負傷でブロンズ・スター受章。テキサス州名誉市民に。戦後は、バターワース葬儀社に長年従事する。米国傷痍軍人会(DAV)中佐。

パット・ハギワラ

アラスカ州兵から442連隊に送られた4人の2世兵士のひとり。入隊し、イリノイ州で行進時の整列指導の任務に就いた頃、ミサコさんと出会い結婚。ミシシッピ州シェルビー軍隊教習所から442連隊補充兵として欧州戦線に赴く。戦後、除隊してミサコさんの故郷、ワシントン州へ。ワシントン大学で電気工学を学び、エンジニアとしてボーイングに長年勤めた。

ミツル・タカハシ

ミニドカ収容所で高校を卒業後、442連隊に志願し、ミシシッピ州シェルビー軍隊教習所から欧州戦線へ送られ、自動ライフル隊に。負傷して入院中にドイツが降伏。日本軍と戦う指令を受けるが、出兵前に終戦を迎えた。シルバー・スター、パープル・ハート受章。大統領の感謝状も受けている。

ポール・ホソダ

開戦時はユタ大学1年生。収容経験はないが軍隊に志願し、1943年に442連隊に入隊。1944年に自動ライフル隊としてイタリアに上陸するが負傷し、退院後はナポリの輸送部隊に移された。予備軍に残り、朝鮮戦争に参加。戦闘技師からMIS、日本派遣を経て、フォートルイス基地のCIC(主に日系人対象の諜報部)に所属した。

エディー(英義)・ホリカワ

10代の頃、両親が共に病没。戦争勃発でカリフォルニア州、ワイオミング州の収容所の移動を経てシカゴで某技術系学校に通い始めると1944年に徴兵。442連隊に入隊し、ライフル隊の軍曹に。1946年に名誉除隊。妻の徳禧久さんの影響で雄生流池坊に学び、夫婦でシアトル地域の華道普及に貢献する。

ジミー・カナヤ

オレゴン州クラカマスの農家出身で、1941年に20歳で入隊。朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参加し、1974年に引退するまで軍隊ひと筋のベテラン。第二次世界大戦は442連隊衛生兵として出陣したが、ドイツ軍に捕まり、6カ月を捕虜として過ごす。米軍の救済があり、やがて終戦。軍に残って学校に通い、19年かけて修士号を取得した。

ミン(ミノル)・ツボタ

ケントで10人兄弟の末っ子として生まれた。徴兵前の1941年3月に米軍入隊を志願。高校時代から練習していたサクソフォンの腕が認められ、カリフォルニア州サン・ルイス・オビスポの部隊の音楽隊に入るが、真珠湾攻撃後、「在留敵国人」としてテキサス州フォートブリス駐屯地本部に送られる。新婚の妻と赤子を残して、442連隊として出兵し、1945年12月に帰還した。

MIS

ジョージ・コウシ

コロラド州グリーンリーで10人兄弟の3番目、次男に生まれる。6歳の時、兄弟と熊本の両親の故郷に送られ、16歳で帰米。米国での教育を小学生からやり直し、デンバー大学で法科を専攻。1940年に徴兵され、翌年からMISとしてワシントンDCへ。占領下の厚木で軍曹として勤務した。除隊後は東京裁判の法務官に。新憲法草案にも寄与した。1974年、勲三等瑞宝章を受章。

松井 尭

オレゴン州フッドリバーの農家に生まれ、母と共に3歳で両親の故郷、福岡県へ。やがて一家全員が日本に引き揚げるが、1934年の中学卒業と同時にひとり帰米し、叔父の住むシアトルに移る。1942年に徴兵。日本語学校の教官としてミネソタ州キャンプ・サベージ配属に。戦後は日本で戦犯調査官を務めた。三菱商事に30年勤務。1994年に勲五等双光旭日章を受章。

岩本義人

5人兄弟の四男、ワシントン州ワパトに生まれる。ホテル経営をしていた父が亡くなり、次男と三男は熊本の母方の叔父に引き取られた。ワイオミング州ハート・マウンテン収容所で入隊志願し、1943年にミネソタ州キャンプ・サベージで日本語学校翻訳課に配属。フィリピンへ送られるが、マラリア、ポリオに感染して戦線離脱。戦後、横浜の軍司令部裁判所で米国兵の裁判に関わった。