「いつも自分の皮膚の色ばかり見ていた」
カーペンター万里さん
「家族は反対も反対、猛反対だった! でも仕方ないじゃない。あの人が私のこと好きになっちゃったんだもん」と、笑いながら語る万里さん。しかし、その人生は過酷な体験の繰り返しだった。
生まれは奈良県吉野町。故郷の山桜は今でも恋しい。夫のダグさんと結婚したのは1960年のこと。立川・砂川米軍基地内の購買部でレジ係の仕事をしていた時に見初められた。「しょっちゅう店に来るの。周りからも『あんたに気があるよ』なんて言われて、その気になっちゃった! 憧れも半分あったのかな。なかなかハンサムだったし、アラン・ドロンに似てるなんて言われていたしね」
デートでは一緒にランチやディナーへ。「と言っても基地の目の前のスナック・バーだったけど(笑)」。やがてふたりは一緒に暮らすようになった。万里さんの家族には内緒だった。ダグさんがアメリカへ戻ることが決まり、結婚を決意。しかし書類の準備だけで5年を要し、その間は離ればなれの生活を余儀なくされた。
1960年、羽田からひとり、パン・アメリカン航空の便に乗り太平洋を渡った万里さん。ダグさんの待つオハイオ州の空軍基地へと向かった。その後、ふたりはミシシッピ州に居を移す。「人種差別の真っ只中にある南部に行ってしまったものだから、本当に大変だった。黒人と白人とで、どこもかしこも分かれていたので、私はどっちに入ったらいいのか、私の肌は何色なんだろうって。買い物先で、『おまえに必要なものはない』って言われたこともありますよ。次にテキサス州に移ってからも同じ。いつも自分の皮膚ばかり見ていました」
米軍の兵器担当だったダグさんは不在がちで、ベトナム戦争にも派遣された。「私、いつもひとりだったの」。寂しい思いもしたが、今は幸せだと万里さんは言う。「ワシントン州は本当にいいところ。彼が私のために選んでくれたの。サウスカロライナ州の出身で、本当は東側に住みたかったはずなのに……」と、涙をにじませる。現在、ダグさんは病気療養中だ。「私にずっと良くしてくれて、100%、いえ110%、本当にいい人。苦労した時には彼がいたし、私が今ここにいるのも彼のおかげ。1日でも元気でいて欲しいから、何でもしてあげたいと思う。彼が私のために何でもしてくれたように」