購読料値上げ
1918年4月29日号に、それまで1カ月50セントだった購読料を翌月から60セントへ値上げするという告知が掲載された。第1面掲載の「随感随筆」で「本日5000号を期して紙面を拡張したが紙代の著しい上昇、労働賃金も四五割上昇によりやむなく値上げした」と説明している。50セントの購読料は創刊時からのものだった。
この頃の著しい物価上昇により同年12月1日より月間70セントとなり、さらに北米時事社、大北日報社共同で購読料を1919年12月1日より月間85セントとした。値上げ理由として「今後一片7仙という法外な高質の紙を使用せぬばならぬ」とある。
月間購読料85セントは当時の日本円で、約1円70銭。現在に置き換えると推計1,700円ほど。この月間85セントの購読料は、1940年4月1日号でも同額だった記述が残っているので、約20年間はそのまま保っていたようだ。
1918年には、創業者らの追悼会が行われた。7月29日号に「一昨日『万新楼』にて本社創立者前社長故隈元清氏、矢田貝柔二氏始め本社関係者で故人になった人々の追悼会が開かれ本社友諸氏を招待。有馬社長の挨拶と山田純牛氏の追悼談ありて盛会なりき」とある。
なお、北米時事は1934年に1万号を達成し、7月30日号では「昭和3年度を持って一時中断になっていた『北米年鑑』を復活し『西北部在留同胞住所録』を刊行し愛読者諸氏へ無料配布いたす」と社告を出して、北米年鑑を特別出版している。
日本人会長としての有馬純義
有馬純清が社長を退いた後、長男の有馬純義が会社経営を継いだ。同氏は、1932年に北米日本人会会長となり、シアトル日本人コミュニティーで活躍した。
1938年3月3日には、日商臨時参事員会選挙で再び日本人会会長として選任された。しかし、選挙で選任された翌日3月4日に純義は会長職を辞任して帰国してしまった。その頃の様子を残している記事を紹介したい。純義は氷川丸船中からこの時の心境も語っている。
「有馬氏帰国」(1938年3月4日号)
本社有馬純義はかねて帰国準備中であったが、本日出帆の氷川丸にて家族同伴にて約3カ月の予定で帰国。
「有馬氏へ留任勧告」(1938年3月5日号)
昨日開いた日商臨時役員会で名誉会員の奥田平次、伊東忠三郎両氏の列席を求め、新たに選ばれた有馬会長辞任の件につき協議して、留任を勧告することに決し、ただちにバンクーバーに今朝入港する氷川丸までその旨打電。
「北米春秋:離愁」(1938年3月8日号)
僕の出発に当たり、二三の人々から「日本人会をどうするのか」と質問され詰問された。それに対して僕は答える言葉がない。しかしながら僕にはどういう責任があるのだろうか。一船延ばせぬかという忠告もあった。それには困るがまた感謝もする。
僕は自ら不正はしておらぬと確信している以上、たとえ一時の誤解を招くとも、必ずその誤解は分明すると信じているからだ。なぜ自分の信念が人々にわかってもらえないのだろうかと憂うることはない。やがてわかる。(中略)
僕が時に日会に対して苦言を呈するのは日会を愛するゆえにだ。どうでもよいと思えば何を好んで苦言など呈しようか。僕に日会長たるの野心ありと、ある人々が言っているそうだが、そんなにまで思われるほど、僕は不徳なのだろうか。もちろん僕は何の弁明の必要は認めぬ。だが残念に思う。僕は会長に選挙されてそれを知らぬふりして日本に帰るのではない。僕は最初から今日の事情においてそれをお断りしてある。一体この無理は何処にあるのか。そして何ゆえに追ってくるのか。僕はあえて一部有志家諸君の猛省を促さざるを得ぬ。而 して大多数の同胞諸君の正しき判断に信頼するものである。(3月4日、氷川丸船中にて)
「本社の有馬氏帰米を延ばす」(1938年7月11日号)
有馬純義氏は健康を害し保養のため今春一時帰国したが依然健康を取り戻すに至らず。帰米を延ばす。(中略)今回帰米期を延期し健康回復の上で渡米する旨の通知があった。
「有馬会長の辞表受理」(1938年9月3日号)
日商臨時役員会が昨日開催され、有馬会長辞任の件に関し種々協議の結果、これを受理することに決した。
純義が日本人会長職を辞退した真相は定かではないが、本来奉仕機関のリーダーであるべきものが名誉職化されていることへの反発が辞任の原因ではなかったかと筆者は考える。純義はシアトル日本人社会のために働きたいという強い奉仕精神を持っていたようだ。
新聞記者としての有馬純義
純義が北米時事に投稿を続けた連載コラム「北米春秋」から、同氏の記者としての立場がわかる記事を取り上げる。
「北米春秋:移民地新聞記者の悲哀(一)」(1935年10月29日号)
移民地の新聞は比較的自由であるはずだ。日本のそれのごとく、官憲の直接の圧迫、干渉もない。記事の禁止などということもない。記者の自制—常識と見識の判断によって自ら制する以外に筆の自由の束縛するものはないはずだが、なかなかそうは行かぬ。「あそこの店は安くて品が良い」と書くと、こちらの店から不平が出る。あそこの店を除いて書くと「こちらのはまずいか」とおっしゃる。活動写真があったら必ず景気がよくて満員で、写真は文化的で教育的だと書かねば承知されない。この調子だと移民地の新聞記者はたいこ持ちでなくば務まらぬ。人口の年々減ずるこの時代には、誠実大儀に頭を下げるよりほかはない。編集のほうはとにかく、営業のほうではけんかが何より禁物だ。
「北米春秋:一読者としての北米時事への注文」(1939年4月22日、24日号 )
僕は今、日本からも毎日、本稿の原稿を書いては、船便ごとに送っている。僕がポートランド支社で通信の筆を執るようになったのが1917年だから、それ以来北米時事とは二十何年かの関係だ。
僕は米国から送られてくる北米時事を一読者として読む。編集の諸君にも相談し、また一般読者諸君の要望はどうか、考えてみたいと思うひとつの問題がある。最近、あまりに日本のニュースのみを重く取り扱い過ぎることである。(中略)在米同胞が何より先に聴きたいのは日本からのニュースだ。それと同時にぜひとも知っておらねばならぬのは米国の事情だ。前者に対しては、邦字新聞は今や百パーセントのサービス振りだが、恨むらくは後者に対して十分に手が届いておらぬのである。(中略)米国議会のニュース、経済界の動き、あるいはシアトル市政の模様、米人社会の動きなどということは米国に在住する者としてぜひひと通り注意し知っておかねばならぬ事柄である。
1939年頃は日米関係が悪化してきた時期だが、有馬社長は北米時事がシアトルに住む日本人にもっとアメリカの情報を提供し、日本人が米国と共存共栄していけるようにすることが邦字新聞の役目だと主張している。
日米大戦突入と、社員による発行継続
1941年12月7日の真珠湾攻撃で、シアトルに住む日本人社会を激震が襲った。即日に、帰国した兄を継いで編集長を務めていた有馬純雄が自宅からFBIに連行され、また会社の資金が凍結された。それでも、残された編集部員の日比谷隆美と狩野輝光が中心となり、北米時事は全米邦字新聞で唯一、翌日8日付の新聞を発行した。
日米開戦の激震の中で年を越した1月2日の社告を紹介する。
「社告」(1942年1月2日号)
米日戦勃発直後全米の邦字紙は一斉に休刊したのでありますが、本社はこの非常時局に当たって、その責任の重大なるを思い、その筋の了解の下に社員一同一丸となって敢然今日まで一日も休刊せず発行を継続して来たのであります。
その間本社は資産一切を封鎖されましたのでただちに特別ライセンス下附方を願い出し、許可のあるのを一日千秋の思いで待ちわびましたが、ついに昨年中の間に合わず、集金はもちろん、広告の整理等全くなし得ないままに越年したのであります。従って新年号の発行も全く不可能となり、そのうえ読者並びに広告主に非常な不便迷惑をかけましたことに対しまして甚だ恐縮しております。しかし今日まで本社員はほとんど無給料の状態で朝となく夜となく大きな犠牲を払って日本人社会の利益のため活動しているのでありますから、その点ご了承のうえ、ご寛容願いたいと思います。なお新年号に代えまして1月2日より平常通り本紙の発行を継続する方針でありますから、読者および広告主の理解ある精神的、経済的後援を願う次第であります。
本社員一同
当時の発行を続けた社員らの状況と、その思いが伝わる内容だ。大戦開始の翌日に発行ができた理由は、北米時事社の編集責任者代理となった日比谷が『ジャパニーズ・アメリカン・クーリエ(Japanese American Courier)』紙(週刊英字紙)のジェームス坂本に依頼して、ワシントン州検事総長の了解をもらったからだと文献に記述がある。
1942年1月30日号に「元気に自治生活」として、開戦直後から連行されてモンタナ州のフォート・ミズーラ抑留キャンプへ収容された人たちが、役員を設けて元気に自治生活を営んでいる記事が掲載された。記事によれば、北米時事社でタコマ支社に勤務していた山口 正が購買部長として役員の一員を担っていた。
日系人強制収容と最後の発行
1942年2月19日には、フランクリン・ルーズベルトによる大統領令9066号が発令されて日本人および日系アメリカ人の強制収容が現実化することとなった。
そんな中、読者へ経済支援を切望する社告をたびたび出しながら、社員らは発行を続けた。手を差し伸べる人々もあったようで、2月24日号には「療養所内同胞患者からの後援に感謝」という旨の社告、2月25日号に「某氏から本社員へオレンジ一箱寄贈」という記事などがあった。
3月6日号から11日号まで「経費節減と一日でも長く発行を続けるために発行部数の削減をし、一部の読者に発送の停止をせざるを得ない事態である。経済的後援を日比谷隆美宛てに送付して欲しい」との社告が出された。
3月12日、ついに北米時事の発行は終止符を打つこととなった。シアトル市内の日本人全てへ立ち退き命令が下された4月21日の1カ月ほど前だ。同日号第1面に、その終止符を打つ英文が掲載された。以下は全文とその日本語訳。
「これが最後の発行 」(1942年3月12日号)
This Is Our Last Shot in Writing
Beginning tomorrow, THE NORTH AMERICAN TIMES will be no more. Just how long, we do not know.
But the final decision was reached when the United States Treasury Department this morning notified us that the TIMES must cease publication.
It must be disheartening news to all of our thousands of readers throughout the North-west who have always looked forward to each copy of the TIMES for its accurate account of activities among residence Japanese.
And it is also disheartening to us in that we – and much as we hated to see this come to a head – must suspend publication, especially in view of the fact that the TIMES, established in 1903, was the oldest Japanese language and English section family newspaper in the North-west.
And we are more so disappointed because we are no longer able to serve the Japanese public as a medium of the releasing valuable information for the United States Department of Justice, War Department and other government agencies.
Yes, regretfully disappointed because we felt that it was vitally necessary to have the TIMES continue, at least until the evacuation of the Japanese, so that resident Japanese of American ideals and democracy may be kept intact so as to comply sanely with army and government officials.
With this edition, the TIMES says “30” and with a “30” ending, the editors honestly hope the Japanese readers of this newspaper will not lose confidence in the United States and continue to support the cause for which the United States is fighting.
これが最後の発行
明日から、北米時事は休刊となる。どのくらい休刊が続くかよくわからない。しかし、今朝、米国財務省から北米時事の発行を中止せよとの命令があったため、最終的な決定に達した。
在留邦人の活動を正確に伝えることで評価されていた北米時事の記事を常に楽しみにしてきた北西部の何千人もの読者にとって、非常に残念なニュースだ。
1902年創刊の北米時事は北西部で最も古い日英両語の家庭紙であるのに、この重大な時局に断腸の思いをもって出版を中断しなければならないことに、私たちは落胆している。
また、米国司法省、戦争担当省、その他の政府機関に対して、貴重な情報を公開する媒体として在留邦人に奉仕できなくなったことに、私たちはより失望している。
少なくとも日本人が強制収容されるまでは、アメリカの理想と、民主主義国家の市民としての軍や政府役人への忠誠をそのまま維持できるように、北米時事を続ける必要があると思っていたので、その失望は大きい。
北米時事では「30」と言うこの「30」の版の結末で、編集員一同、本紙の日本人読者が米国への信頼を失わず、米国の国策としての戦争を支持し続けることを願っている。
「30」とは筆者の推測だが第1面英文の記事項目数「30」(大文字見出し総数に該当)と見た。30の全ては北米時事が精魂込めて書いた記事だった。英文の最後に「bf」と書かれており、英語編集者のバド更居が筆者だと推測される。
同日号第3面には日本語で次のように掲載された。
「本紙は一時休刊」(1942年3月12日号)
本社は米日開戦以来悪戦苦闘、今日まで同胞社会への奉仕を続けてきましたがついに本日政府の命令により一時休刊せねばならなくなりました。同胞社会にとって最も重大な時局において発行を一時でも停止しますことは本社員一同今日までの苦闘に鑑みましてもこのうえなく残念なのでありますが、政府の命令とあれば如何ともできないのであります。
しかし本社としましてはただちに各方面の発行許可を仰ぐべく交渉を開始しているのでありますから、この難関打開の道が開けるものと信じております。もし再刊の許可がありました際には再び全読者のご愛読をお願いしたいと思います。
最後に今日まで精神的にまた財政的にご後援を願いました読者、広告主諸氏に対し深く感謝の意を表すると共に前途の多幸を祈るものであります。
北米時事最後の号は、1万2,278号だった。約40年間にわたりシアトル日本人社会を支え続けた同紙が1つの歴史に幕を閉じた。日米大戦という難局に、長い歴史で培った強烈な使命感を持って発行を続けた社員らには感服する。日比谷と狩野はその後、北米報知としての戦後の再生に加わり、北米報知編集長を務めることになる。
参考文献
1.『在米同胞発展史』(加藤十四郎、博文館、1908年)
2.『在米日本人史』(在米日本人会事蹟保存部編、在米日本人会、1940年)
3.『シアトル日刊邦字紙の100年』(有馬純達、築地書館、2005年)
4.『続・北米百年桜』(伊藤一男、日貿出版、1972年)
5.『アメリカ春秋八十年 シアトル日系人会創立三十周年記念誌』(伊藤一男、シアトル日系人会、 1982年)
6.『北米報知』創刊百周年記念号(2002年秋)