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シアトル日本語補習学校 柏 隆さん

シアトル駐在日誌

夏休みスペシャル! アメリカでの仕事や生活には、日本と違った苦労や喜び、発見が多いもの。日本からシアトルに駐在して働く人たちに、そんな日常や裏話をつづってもらうリレー連載

シアトル日本語補習学校の柏隆校長先生にインタビュー

取材・文:磯野愛

柏 隆さんシアトル日本語補習学校の子どもたちとどの学校でも間違いなく名物先生だったであろう柏校長と話して筆者も世話になった恩師を思い出した

#20 柏 隆(かしわたかし) 東京都出身。文部科学省からの派遣で2019年4月にシアトル日本語補習学校の校長として着任。昔、苦労をかけられた生徒とのエピソードを、目頭を熱くして語ってくれた、誰もが1度は出会いたい熱血先生。家族は同い年の妻と、長男・長女。ジャズを聴くことが趣味で、カラオケの十八番は安全地帯。

恩師との出会いで教師になることを決意

子どもの頃、夏休みの間はずっと、水戸にある母方の祖父母の家で過ごしていました。そこにはいつも、伯父もいました。伯父は中学校で国語教師をしており、夏休み中は釣りと読書に明け暮れ、のんびり暮らす毎日。その様子を見て「学校の先生はこんなにも自由で、自分の時間を謳歌できる職業なんだ」と、子どもながらに感銘を受けました。恥ずかしながら、それが教師という仕事に興味を持ったきっかけです。

とはいえ、小学生の頃の私は人見知りで、人前で話をするとすぐに顔が赤くなってしまうことから「茹でダコ」というあだ名が付いたほどでした。そんな私が教師を志す契機となったのは、高校入学後、目標を見失い、横道に逸れそうになった時のことです。問題行動を起こしてしまった私を、ほとんどの教師が「ダメな生徒」と見限る中で、一人の先生が「なぜ、そんなことをしたのか?」と、心情を理解しながらも行為の非を厳しく諭し、私の個性を認め、可能性を信じて激励し続けてくれました。この恩師との出会いにより、「こんな教師になりたい」と、決意を新たに。心を入れ替えた私は、受験勉強にも励み、教員養成課程のある国立大学に進学。卒業後、1978年に中学校国語科の教師として教鞭を執ることになりました。中学校を選んだのは、多感な時期を迎えている生徒たちの失敗や挫折に、ひとりの人間として真摯に向き合い、直接関わっていきたいという思いからです。

1996年毎日が闘いだった足立第六中学校にて国語の授業中のひとコマ

初任校は築地市場の近くにある、中央区立第二中学校。東京都採用では残念ながら、憧れていた伯父のような暮らしは当然できるはずもなく、右も左もわからない中、1年生の担任、そして男子バレーボール部の顧問として無我夢中でした。しかし、生徒数の減少に伴う教員の過員解消のため、たった1年で同じ中央区の第三中学校への異動が決定。最初に担任を受け持った生徒たちとの別れを惜しんだのも束の間、ここから地獄の日々(笑)が始まりました。

というのも、この中学校には「やんちゃ」な生徒たちも多く、毎日がリアルに名作TVドラマの「スクール・ウォーズ」や、最近で言えば「今日から俺は!!」を彷彿させる世界。血気盛んな男子は喫煙常習、ボンタンにパンチパーマ、女子もスカートは超ロング丈、くるくるヘアのスケバンという出で立ちで、毎日がそんな子どもたちとの愛と戦いの日々でした。若かった私は、先輩教員に最前線に追いやられ、生徒たちと正面からぶつかり合ったことも。大きな声では言えないですが、当時の校内人事は、先輩教師たちが飲み屋で決めたとおりになっていたので(笑)、いちばん下っ端の私は5年連続で手のかかる3年生の担任に。精神的にも肉体的にも疲弊する毎日でした。

教員生活で最初に担任をした中央第二中学校の入学式と40年後の同窓会

そんな時にロンドンにある全日制の日本人学校に赴任する大学の後輩の激励会に行ったんです。正直、変化も欲しかったのでしょうね。いろいろ話を聞くうちに面白そうだと思い、すぐに私もエントリーしました。当時、海外子女の「か」の字も知らず、「か」と言えば「カツアゲ」が浮かぶくらいでしたが、その翌年の1989年から3年間、同じくロンドンにある補習授業校に勤務。借用していた3つの現地校のうちの1つ、クロイドン校舎担当として小学部300人の児童を見守りながら、心穏やかに過ごしました。

手のかかった子ほど思い返すとかわいい

日本に戻ってからは、足立区と江戸川区の中学校に勤め、すっかり元の世界の住人となったところで、とある事件が起きました。ある生徒が暴力事件を起こし裁判沙汰となったのです。彼は、いわゆる番長的存在ではありましたが、弱者を守る優しさも持ち合わせていて、自分から暴力を振るうような子ではない。私はそう確信していたので、彼のために陳情書も提出し、裁判にも情状証人として出席しました。卒業式当日、その彼が私の席の前で立ち止まり、「先生、ありがとうございました」と、そっとつぶやいて深々と頭を下げたのです。涙が溢れました。これはもう、教師冥利に尽きるというか、それまでの苦労も全て吹っ飛んでしまう瞬間でしたね。手のかかった子ほど、あとから思い返すとかわいいもの。そういう子は今でもまめに連絡をくれます。

初めて校長を務めたのは、大田区立羽田中学校。空港があるだけに飛行……ではなく、非行に走る生徒も。そんな環境の中で私は、夜中に子どもたちが徘徊することを「ナイトフライト」、それに振り回される担任のことを「キャビンアテンダント」などと呼び、自ら校長室で生徒指導をすることもしばしば。管理職になっても結局は生徒と関わることが好きで、彼らと直接つながっていたい気持ちが強かったのです。同僚の先生たちと力を合わせて学校改善に取り組み、4年後には、すっかり落ち着いた学校となりました。

そのあとも、定年の節目を挟みながら通算6年間、同じ大田区内の大森第四中学校で校長を務めました。田園調布エリアの洗練された雰囲気と情に厚い下町の良さが程良くミックスされた素晴らしい学校で、地域・PTA・教職員が一丸となって子どもたちの成長をサポート。これまでの苦労が報われたかのような、充実した日々でした。立地柄か、海外からの編入生徒もいて、彼らとの交流を通じてロンドンでの充実した生活の記憶がよみがえりました。「第2の人生として、もうひと踏ん張り、新天地で頑張ってみようか」。そんな気持ちから、現在のポジションに応募したのです。また、ロンドンから帰国した後の教員生活では、いじめや不登校への対応、特別支援学級併設校での勤務も経験し、当時以上に海外子女教育に貢献できるという確信もありました。

 

“苦楽しい”この学校が生徒たちの心の居場所であってほしい

現在勤務するシアトル日本語補習学校は、幼稚園年長から高校3年生までの577名、教職員61名で成り立っています。私の主な仕事は、教育課程の編成・管理、教職員への指導や助言といったマネジメント、教職員の採用、児童・生徒の転出入に伴う学籍管理、編入希望者への面接・試験の実施などです。また、監督省である文部科学省や、運営母体であるシアトル日本商工会(春秋会)・教育部会の代表者によって構成される「学校運営委員会」への報告も大切な業務。毎週土曜日にサマミッシュ高校の校舎を借りて開校し、それ以外の日はベルビューにある春秋会のオフィスで、前述のような事務作業に追われています。驚いたのが、保護者の皆さんの強力なバックアップ。先生方は平日に別の仕事を持つ方も多く、週1回の授業日では、日本の公立学校では教職員が担うような様々な行事から、日々の細かな業務まで手が回らないのが実情です。運動会や図書室の運営、古本市や読み聞かせボランティアなど、保護者の皆さんがPTA活動の一環として主体的に請け負ってくれています。また、施設・設備面では、視聴覚機器や電子黒板など、授業で効果的に使用できるICT機器の整備や活用が、日本の教育現場よりもずっと先に進んでいます。こちらもまた詳しい保護者の方がいろいろサポートしてくれて助かっています。

シアトル日本語補習学校のスタッフと

生徒たちは平日に通う現地校での学習、スポーツ、音楽などの習い事と、多くをかけもちしており、忙しい毎日を送っています。特に日本から来たばかりの子どもにとって、現地校での生活は苦労の連続でしょう。シアトル日本語補習学校はさまざまなバックグランドを持つ生徒たちの心の居場所でありたいと思っています。校歌の一節には「きびしく・たのしく・ゆたかに学ぶ」というフレーズがあります。作家の遠藤周作氏が創作活動の喜びの表現に使った言葉もまた、「苦楽しい(くるたのしい=苦しいけれど楽しい)」。そんな学校を理想としています。2つ以上の言語、国籍を持った生徒たちが、国際人としての豊かな人間性、そして、その礎となる確かな日本語力と学力を育むために、大量の宿題をこなしながらも、週に1回、日本語で思いの丈を表現できる、ぬくもりのある場所。この学校がそんな存在になれるよう、精いっぱい頑張っていきたいと考えています。

ジャズシンガーの沖野ゆみさん中央と記念の1枚右は娘の久美さんシアトルにいるうちにジャズバーめぐりを存分に楽しみたい