現役の通訳・翻訳家が、日々の現場で感じる日米の文化の違いや最新の翻訳事情など、英語を通して見えてくる「ちょっとした気づき」を紹介するコラムです。
第4回「訳せない言葉」を訳した明治の日本人
翻訳や通訳の仕事をしていると、「これは何と訳したらいいのだろう」と固まってしまう言葉があります。どう訳しても、その言葉が持つニュアンスまで伝えきれない。そんな言葉は、日本語にも英語にもありますよね。
例えば、「木漏れ日」。木々の葉の間から差し込む光を表すこの言葉は、英語には一語でぴったりと対応する言葉はありません。sunlight filtering through the trees と訳してみても、どこか説明調で、「木漏れ日」という一言から日本人が思い浮かべる、あの柔らかな光や静かな空気まで伝えることができないのです。
同じように、「しんしんと雪が降る」も訳しづらい表現です。「しんしん」は雪が降る音ではなく、雪に包まれ、辺りの音まで吸い込まれていくような静けさを表しています。これを Snow falls silently. と訳しても、日本語で表す情景とはちょっと違いますね。
もちろん、英語にも日本語で直訳できない単語はたくさんあります。最近、特に気になる言葉は、journey。日本人は文字通り「旅」をイメージするでしょうが、これはビジネスシーンでもよく使われる言葉です。
例えば、Start your AI journey today. のようなフレーズを見たことがありませんか。これは、「今日からAI活用を始めましょう」「今日からAIを活用した働き方を始めてみませんか」「今日からAI活用への第一歩を踏み出しましょう」のように訳すことができます。いずれにしても、本来の「旅」という意味ではなく、近年は「継続的な取り組みや成長のプロセス」を表す概念として使われることが多いですね。
resilience や well-being に至っては、使われ始めた頃こそ、それぞれ「回復力」や「幸福」「健康」のように訳されていましたが、今では「レジリエンス」「ウェルビーイング」というカタカナがすっかり定着しました。いろいろな訳語を当ててみても、どうしても元の言葉が持つニュアンスを取りこぼしてしまうからです。
そう考えると、明治の先人たちが生み出した訳語には、改めて感服させられます。「哲学 (philosophy)」「文明 (civilization)」「情報 (information)」「概念 (concept)」——。これらは、西洋の思想や文化を取り入れる中で、新たに生み出された日本語です。単に表面的な訳語を当てたのではなく、その概念を深く理解し、日本人の感覚になじむ言葉として定着させました。こうして百年以上経った今でも、違和感なく使われ続けています。私たちは、「哲学」や「文明」を、もともと翻訳によって生まれた言葉だと意識することさえありません。
AIやデジタル技術の進歩によって、今また新しい英語が次々と日本に入ってきています。翻訳者としては、「カタカナで済ませたくない。なんとか日本語にしたい」と思うものです。そんな時、明治の知識人たちなら journey や resilience をどんな日本語に訳しただろう、と想像するのも楽しいものです。














