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強制収容12万人のひとりひとりの人生を思う

戦争により人生を狂わされた大勢の人たちがいます。父はカリフォルニア出身の日系2世、母は広島出身の日本人というベルビュー・カレッジのアン松本・スチュワート教授が両親の戦時中の手記の存在を知ったのは、ふたりが亡くなった後のことでした。

アン松本・スチュワート■ワシントンDC生まれ。コーネル大学、早稲田大学で教鞭を執った後、ベルビュー・カレッジの日本語科担当教授となり現在に至る。

両親が出会う前に、それぞれの場所で戦時中に書いた手記が見つかったのは、遺品を整理している時でした。このような貴重な体験を、どうして生前にもっと聞かせてくれなかったのかと戸惑いました。思い出すのもつらかったのか、今となってはわかりません。でも、手記は大切にしまってあったので、いつか私と妹、弟の3人の手に渡る日が来ると思っていたのかもしれません。

スチュワート教授の両親結婚式にて

父の手記には真珠湾攻撃直後の様子が書かれていました。最初は「真珠湾ってどこ? フィリピン辺り?」と、誰も真珠湾を知らなかったそうです。親しい白人の友だちに時給の良いアルバイトが見つかり、後にわかったのが、競馬場の馬舎を急きょ、強制収容のための集合所としてバラックにする作業だったとも。近所の日系人は次々と職をクビになり、日本語の住所録を持っているという理由だけでFBIに連行された人もいたので、家にある日本語の本70冊くらいを全て燃やし、写真やラジオも破棄したとありました。祖父は30年かけて築き上げた事業を手放すことになりましたが、店の名前だけは誰にも渡さないと守ったとのこと。祖父の意地を感じました。一家の強制収容が決まり、日系人に対する人種差別もある中、白人の婦人会からサンドイッチが差し入れられたり、近所で家財道具の保管の申し出があったりと、人に恵まれたのは救いでした。手記は「親切な人もいるのだから、自分の将来も大丈夫だ。振り向かずに前に進む」と締めくくられています。

母は広島の呉市出身で、戦時中の空襲で夜中も頭巾を被り防空壕に逃げる日々が続いたと手記にあります。逃げる途中で幼い弟が「火事を消してくる」と言って走り去ったこと、防空壕に逃げても「熱風で窒息するから」と言われ、山の上まで逃げたことなど、混乱した様子が書かれています。はぐれてしまった母と弟とは再会できましたが、街は焼け野原となり家も全焼。空を悠々と米軍の視察機が飛んでいるのを見て、憎らしさが増したなどと感情をあらわにしています。戦後は、進駐軍が呉に来るという知らせに、「女、子どもは呉を離れろ」と言われ、髪を切って男装する女性もいたほど。実際は瓦礫を片付けたり、お菓子をくれたりして、その優しさに驚いたそうです。

母信枝さんの残した手記

日本とアメリカにいた両親が同じ時期に手記をそれぞれ書いていたことに驚きました。生前、戦時中のことを聞いても「覚えていない」とあまり話してもらえなかった分、このように文字に残しておいてもらえたことに感謝しています。戦争は人が人を殺す人類の最悪の罪だと思います。今、ウクライナでは多くの市民が犠牲になっています。たとえ生き延びても、心に受けた深い悲しみや傷は一生癒えないでしょう。子どもの頃から教育の場で異文化に触れ、それぞれ違う言語、生活、習慣を持っていることが当たり前で、みんなが違っていいんだ、その違いをお互いが尊重し合うことが大切なんだと学ぶことが大事だと考えます。