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楠 活也さん〜シアトル別院仏教会輪番

夏の盆踊りがシアトル市民に広く知られるシアトル別院仏教会は、創立から120年を超える歴史を持ちます。輪番りんばん(主任開教使)を務める楠 活也さんに、シアトルに着任するまでの異色の経歴を含め、これまでの活動やパンデミックでの苦労などを語ってもらいました。

取材・文::楠瀬明子 写真::楠瀬明子、本人提供

楠 活也■1977年生まれ。長崎県長崎市で育ち、長崎東高校を卒業後、宮崎大学教育学部に進学。在学中、青年海外協力隊の隊員としてアフリカのジンバブエに渡る。大学卒業後は3年間、宮崎県内の小学校で勤務。京都で仏教を学んだ後の2010年、開教使としてカリフォルニア州ローダイに赴任し、2017年春からシアトル別院仏教会輪番を務めている。

シアトル別院仏教会▪️シアトルで1901年に創立された、浄土真宗本願寺派の寺院。毎日曜日に日英両語で礼拝が行われており、夏の盆踊りはシアトルのシーフェア行事のひとつとして親しまれている。1941年完成の現在の建物はシアトル市の歴史的建造物に指定されている。葬儀、法事、結婚式の相談にも応じている。


Seattle Betsuin Buddhist Temple

1427 S. Main St., Seattle, WA 98144

開館時間:月~金9:30am~3pm

☎️206-329-0800、seattlebetsuin.nihongo@gmail.com

https://seattlebetsuin.com

行事案内

●除夜の鐘 12月31日(土)12pm〜・・・大晦日正午より、阿弥陀仏の前で1年を振り返り感謝をしまえうための鐘きを。除夜の鐘の出張サービスも受け付けている。

元旦会がんたんえ 2023年1月1日(日)10am〜・・・人々が集まり、新年に当たり1年間を穏やかに過ごせるよう念じる。


寺に生まれ、ぐるりめぐって今また寺に

江戸時代初期から続く長崎市内の寺に次男として生まれた。実家の光源寺は、病気で亡くなった母親が墓で産み落とした赤子のために幽霊となって飴を買いに来るという民話「産女うぐめの幽霊」で知られる。また、明治時代から日曜学校が続けられており、2009年には日曜学校の卒業生たちによって、長崎市内を「ひかり子ども会創立100年」の看板を下げた路面電車が走るなどした。

だが当人は、寺の息子であるのが嫌だったと言う。

「寺で生まれ育つと、寺の息子としていつも周囲の目にさらされています。寺に生まれた友人たちは大抵そうなのですが、皆それが嫌なのです。私には、自分のことを誰も知らない遠くへ行きたいという気持ちが常にありました。地元の大学へ行かずに宮崎大学に進んだのも、アフリカのジンバブエに渡ったのも、遠くに行きたかったからです」

小学校でソフトボールを始め、中学、高校、大学はずっと野球ひと筋。常にチームの中心となって活躍し、守っては捕手を務め、チームではキャプテンとして信頼されていた。プロ野球選手になることを夢見て練習を重ねるも、そのうちに自分の能力の限界を感じてくる。それでも、何かしら野球に関わっていきたいと思っていた。青年海外協力隊に応募し、隊員に選ばれてアフリカ南部の国、ジンバブエ(旧南ローデシア)に向かったのは大学4年の時。子どもたちや青年に、野球を指導するのが任務だった。

中学生の頃プロ野球選手を目指して練習に明け暮れる毎日だった

「初めての海外で不安はあったはずなんですけれど、ただただワクワクしてました」。当時はまだインターネットも普及しておらず、現地の子どもたちにとって野球は未知のスポーツ。「前任者のやっていたことを引き継いで、小学校を回っては一生懸命教えました」。かつて英国植民地だったアフリカの貧しい国で、いちばん大事であろう農業でも、今後必要となるコンピューターの技術でもなく、毎日野球を教えていることに疑問を感じる瞬間もあった。だが、「何か楽しみを持たなければ、人は生きていくことはできないのです」という現地の人の言葉に支えられ、活動を続けていった。

青年海外協力隊として渡ったジンバブエで右端が楠さん

2年4カ月のジンバブエ滞在を終えて大学に戻ると、卒業後は宮崎県の小学校で教鞭を執った。「学校の部活で野球を教えたい」との思いから、教員免許を取得していた。しかし教師3年目に悩みや迷いが生じて退職。再び海外を目指すことにした。

家族の助言もあり、選んだのは開教使としての海外伝道。ジンバブエに行く前にすでに得度(仏門に入り僧侶になること)は済ませていたので、京都の中央仏教学院に入学して、仏の教えをより深く学んだ。「それまで、ほかのお寺さんのことは知らなかったのですが、京都で学んでいると、ずっと昔から日曜学校を続けるなど自分の実家はすごい寺だと改めて感じました。今でも悩んだ時に戻る原点は日本の寺、父の姿です。結局、寺を嫌いだった私が、ぐるりと回って寺に戻って来たのです」

2010年に、カリフォルニア州北部の町、ローダイに開教使として着任。その直前には、幼なじみの綾乃さんと結婚した。「小学校では同じクラスで、中学、高校も一緒でした。でもそれ以上のことはなく、大学も別々だったのですが、同窓会で再会して……。アメリカに行くと言う私について来てくれました。ありがたいことです」。2016年には長男の結也ゆいや君が誕生した。そして翌年、楠さんは39歳で家族と共にシアトルへ。

創立120年の節目も経て

海外の数多い仏教会の中でも、重要な拠点は本願寺の支部との意味で「別院」となり、主任開教使も「輪番」と称される。楠さんは、シアトル別院仏教会に新輪番として着任した。

シアトル仏教会の歴史は古い。19世紀末から、多くの日本人男性が米国西北部の製材所や鉄道で働くため渡米。1900年の米国国勢調査によれば、シアトルにも2,990人の日本人が住んでいた。そういう中で1901年、シアトルに仏教青年会が発足。日本から初代開教使が着任して同年11月に浄土真宗本願寺派のシアトル仏教会が誕生した。

シアトル別院仏教会全景手前は年末に除夜の鐘が響く鐘撞堂

「当時のことですから20代の若者が多く、心の支えとなるリーダーをどこかで求めていたことでしょうね。また血気盛んな若者たちを束ねる必要もあったでしょう」と楠さんは推し量る。1908年には、シアトル日本町を貫くメーン街(S. Main St.)にシアトル仏教会の建物が完成。しかし、公営住宅建設の大型プロジェクトであるイェスラー・テラス・プロジェクトが計画されると、仏教会は立ち退きを余儀なくされる。同じメーン街を東に数ブロック移動した現在地に新仏教会が完成したのは1941年10月、日米開戦ふた月前のことだ。仏教会指導者や有力メンバーは開戦直後に逮捕され、そのほかのメンバーも翌春の日系人強制立ち退きでシアトルを去った。収容所から人々がシアトルに戻り、1946年になってようやく、米国海事委員会が使用していた建物がシアトル仏教会に返還された。

戦後再開したシアトル仏教会では、プログラムが次々と拡充。1948年には保育所が開設、ボーイスカウト連隊も結成された。このほかの活動も評価されて1954年、シアトル仏教会は別院に昇格。こうした歴史を積み重ねて、シアトル別院仏教会は2021年には創立120年を迎えた。

「このコロナ禍で、120周年イベントはオンラインと対面式の限定的なものになりました。昨年11月に行われた120周年記念法要の様子はYouTubeで見ることができます」。今年90周年となるはずだったシアトル別院仏教会恒例の盆踊りも、残念ながらバーチャルでの開催のみ。「来年の夏には、90周年を祝う盆踊りを行います。楽しみにしていてください」

大勢の人でにぎわうシアトル別院仏教会の盆踊り2018年

 

新型コロナによるパンデミックに突入して以来、この4月までは対面式での日曜礼拝はなく、ZoomやYouTubeで礼拝や法話が行われた。「本堂でひとり、機器に向かって話すわけですから、やはりもどかしさやむなしさを感じることがありました」。対面式での礼拝が復活し、人々が本堂に集えることのありがたみを実感するのは、コロナ禍を経たからこそだ。しかし、新たな課題も生じている。対面式での礼拝が再開されても、いったん人々が慣れ親しんだオンライン礼拝を全く失くすわけにはいかず、対面とオンラインとの二本立てとなったのだ。そのうえYouTubeの法話は、本堂で話す様子そのままではなく編集も必要となってくる。「そういう難しさはありますが、コロナ禍はオンライン伝道を推し進めるきっかけになったとも言えます」

2018年には仏教会メンバーと共に光源寺を訪問し交流が図られた

子どもたちの活動の場を提供

昨年のハロウィンに妻の綾乃さん息子の結也君と一緒に

子どもたちのためのプログラム、「ダルマスクール」も今秋からは以前のような活動が戻りつつある。ダルマスクールは、乳幼児から高校生を対象にした、子どものための仏教子育てプログラムで、ハロウィンや年末行事なども行う。日曜日のサンデースクールは、マスク着用ですでに復活中。実家光源寺のひかり子ども会で育った楠さんは、「アメリカでお寺に来るということは、この多種多様な文化の中で、子どもの生きる土台を作ることだと思います」と語る。妻の綾乃さんも、5歳までの幼児と保護者が集う日本語プレイグループ「お寺で遊ぼう!」をオンラインと対面式で開催し、気軽な参加を呼びかけている。

シアトルに来た時はまだ赤ん坊だったひとり息子の結也君は、この秋から幼稚園に通う。「息子も野球に興味を持っているようです。8月末のイチロー・ナイトには、私は出張で行けなかったのですが、妻と息子がスタジアムに出かけました」とうれしそうに話す。かつての野球少年は、今はファンとしてシアトル・マリナーズを応援し、時には仏教会対抗試合でプレーもする。

昔、遠くアフリカに出向いて、野球という楽しみを伝えようとした楠さん。今、仏の教えを広める開教使としてアメリカに来て、伝えたいことがある。

「大人、子どもにかかわらず、仏教の教えを通して、柔軟な心を養い、広い目を持って欲しいと思っています。そうすれば、この世の中で決して自分はひとりで生きているのではなく、家族、コミュニティーなど全ての命に支えられていることがわかります。ありがたいという気持ちが芽生え、他人にも優しくなれます」

お参りのメンバーの前で法話を行う

寺で育ち、寺を離れようとした時期を経て、寺に戻って来たこれまでの道のり。それは、この間に経験した多くの悩みや迷いともども、決して無駄ではなかったに違いない。ふと、お釈迦さまの手のひらの上にいる姿が思い浮かんだ。