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シュー多恵子さん〜シアトル日本語学校校長

1902年創立のシアトル日本語学校(旧国語学校)は、120年の歴史を誇る米国本土最古の日本語学校。昨年3月、シュー多恵子さんが校長に就任し、カリフォルニアからリモート勤務で同校を運営しています。多恵子さんに、祖父の代から続く日系コミュニティーとのつながり、言語教育や平和への思いを聞きました。

取材・文:シュレーゲル京希伊子 写真:ワシントン州日本文化会館(JCCCW)、シアトル日本語学校、本人提供

シュー多恵子■山口県岩国市出身。23歳で渡米し、カリフォルニアの大学で日本語を専攻後、TESOLの修士号を取得する。長年、第2言語として日英両語を教えるプロフェッショナル。2022年3月、シアトル日本語学校校長に就任し、現在に至る。

シアトル日本語学校
1902年創立。戦後は一時期、強制収容から戻った日系人たちの宿泊施設として利用されるなど、シアトルの日系社会と歩みを共にしてきた。下記クラスのほか、在校生は個人レッスンも別途受講可能。
Seattle Japanese Language School(JCCCW内)
1414 S. Weller St., Seattle, WA 98144
☎206-323-0250、jls@jcccw.org
www.jcccw.org/sjls
●子ども向けクラス(対面式またはオンライン)
レベル:初級
スケジュール:土9:30am~11:30am
授業料:$465/セメスター(兄弟割引あり)
●大人向けクラス(オンライン)
レベル:初級、中級、日本語能力試験N4準備
コーススケジュール:火~木6:45pm~8:45pm、土9:30am~11:30am(週1回)
授業料:$250/10週間

創立当時の校舎前での集合写真

日系アメリカ人の従姉との出会いが人生を変えた

絵本作家志望の甥が作ったひらがな練習用教材を手に

山口県岩国市で生まれ育った多恵子さんだが、11歳を迎えた頃、思いがけず家族の歴史を知ることになる。ある日突然、目の前に日系アメリカ人が現れ、「従姉だよ」と紹介されたのだ。

多恵子さんが生まれる前に亡くなった父方の祖父には、アメリカに移住した過去があった。13歳の若さで親戚を頼りにロサンゼルスへ渡り、農場で働いた。日本人の妻との間に7人の子どもが生まれたものの、その7人目の子は生後間もなく火事で死亡。それを追うように妻も他界した。子どもたちを連れて山口に戻った祖父は再婚して4人の子どもに恵まれる。その最初の子が多恵子さんの父親だった。

アメリカ生まれの子どもたちは日本の生活になじめなかったのか、順々にアメリカへ戻っていった。祖父の子ども10人のうち半分がアメリカ、半分が日本に暮らす中、第二次世界大戦が勃発する。やがてアメリカ西海岸に住む日本人・日系人は「敵性外国人」として立ち退きを強いられ、遠く離れた収容所に送られる。多恵子さんの伯父、伯母もまた、アメリカ生まれのアメリカ人であるにもかかわらず強制収容された。反米とみなされた者は、より厳しいツールレイク収容所での隔離に切り替えられたが、そこに伯父、伯母もいたことがあとからわかったそうだ。

血のつながった親戚がアメリカにいる! 多感な年頃の多恵子さんは、当時流行りのパンタロンにサングラスといういで立ちでカリフォルニアから訪ねてきた従姉たちの姿に衝撃を受けた。「おじいちゃんが日本に戻らなかったら、私はアメリカで生まれていたのかも」。多恵子さんは、さまざまな想像をめぐらせた。

諦められなかった「英語の先生」になる夢

岩国は、言わずと知れた米軍基地の街。住民たちにとって、アメリカ人は身近な存在だった。年に一度、現在ではフレンドシップ・デーと呼ばれる日米親善イベントが5月5日にあり、基地が周辺住民に開放される。多恵子さんは、どこまでも広がる芝生、初めて食べる本場のハンバーガーやホットドッグの味に感動したと話す。

小学生の頃の多恵子さん1歳下の妹と一緒に

近所に住むアメリカ人の子どもたちと遊ぶのも好きだった。幼心に「あの子たちともっとしゃべってみたいな」という思いが膨らんだ。小学高学年になり、念願の英語塾に通い始めてからも、その憧れが大きなモチベーションとなった。英語での会話が自然と耳に入ってくる環境の中で、英語の発音はいつの間にか身に付いていたと言う。やがて多恵子さんの心の中で「英語の先生になりたい」という夢が芽生えていった。

岩国の名所錦帯橋今でも故郷を思い出すとこの風景が脳裏に浮かぶ
カリフォルニアから日系アメリカ人の従姉が訪ねてきた記念に撮影左から従姉多恵子さん妹父

ところが、家庭の事情で教師の道を断念せざるを得なくなる。16歳の時に父親が亡くなり、一家の大黒柱を失ったのだ。大学進学は諦め、看護学校へと進んだ多恵子さんは、それでも英語を学びたい気持ちを抑えられずにいた。仕事をしながら大手英語塾に通うようになると、その英語講師にアメリカへの語学留学を勧められる。多恵子さんはこの時、23歳。日系アメリカ人の従姉と出会い、アメリカでの暮らしに思いを馳せた幼い頃の記憶がよみがえった。渋る母親を説得し、「1年したら日本に戻って、塾で英語を教える先生になるから」と異国の地に旅立った。

祖父の長男の妻である伯母従姉たちと一緒に左から2番目が多恵子さん

多恵子さんが最初に降り立ったのは、かつて祖父が暮らしたカリフォルニア。以来、日本に戻ることなく、現在もロサンゼルスに暮らす。「カリフォルニアが大好きになってしまったんです」。周りの友人たちの多くがクリスチャンだったことから、自身もクリスチャンに。その教えは、異国で暮らす多恵子さんの心の支えとなった。

アメリカへの旅立ちの日希望に胸を膨らませて新岩国駅を後にした

向上心の強い多恵子さんは、メキシコへの宣教旅行に役立てられるようスペイン語クラスを受講。それをきっかけに学ぶ楽しさに目覚め、今度はコンピューターのクラスも取ることに。しかし、「なんのためにクラスを受けるのか?」という目標がないことに思い至る。

「自分が何を目指しているのか、改めて考えてみました。ちょうど、日本語のチューターのアルバイトにやりがいを感じ始めていた頃で、これかもしれないと直感したんです。この気付きが、今あるキャリアのスタート地点になりました」

多恵子さんは大学に進学し、日本語を専攻。大学院では第2言語として留学生や移民に英語を教えるTESOLの資格を取得した。語学学校講師として英語を教えていたが、やがてオンラインで英語と日本語を教えるようになる。「本当に遠回りだったけれど、英語を教える仕事がしたいという夢がかないました。日本語教育にも携わる今、送り出してくれた母には感謝しかありません」

人的交流が平和の礎に

広島とのほぼ県境に位置する岩国の子どもたちは、広島の原爆ドームや原爆資料館を訪れ、漫画『はだしのゲン』を読み、戦争の恐ろしさを学ぶ。一方で、そばに米軍基地があり、同じ学校に通うアメリカ人の子どももたくさんいる。原爆を落としたアメリカ人と、近所に住むフレンドリーなアメリカ人。どうしても両者が結び付かない。「こんなに優しい、いい人たちなのに……。もしかしたら、この人たちのおじいさんやお父さんが広島や長崎に原爆を落としたのかもしれない」。幼い多恵子さんには、それが不思議でならなかった。
歴史の授業で習うものの、第二次世界大戦が現実にあったのだと初めて肌で感じたのは、台湾系アメリカ人の夫と出会ってからのこと。「パール・ハーバー」の言葉だけでしか知らなかった、ハワイの真珠湾も実際に目にした。
台湾系アメリカ人の夫と付き合い始めて1年経った頃カリフォルニア州サンタバーバラにて
「平和に対しては、人一倍強い思い入れがあります」と、多恵子さんは強い口調で訴える。「国のトップたちのけんかに、なぜ国民が巻き込まれなければならないのでしょうか」。カリフォルニアの大学で歴史を習った際の教授の言葉が忘れられない。「『日本人はもっとパール・ハーバーについて知らなくてはならないし、アメリカ人はもっと原爆について知らなくてはならない』と言われて、本当にそうだと思いました。平和のためには互いを知ることが必要。人的交流は欠かせません」。語学だけではなく、その背景にある文化や歴史に触れられる機会をもっと作りたい。それが、多恵子さんの願いだ。
カリフォルニアの大学での卒業式
シアトル日本語学校のこれから
シアトル日本語学校は、日本からアメリカに移住してきた1世たちが2世の子どもたちに日本語を教える学校として設立されたが、当時は1世たちが英語を覚える場でもあったそうだ。多恵子さんはそうした歴史も踏まえ、「言語交換(Language Exchange)」プログラムの構想を温めていると明かす。文字通り、違う言語を話す者同士が母国語を教え合うことを意味する。英語学習者は「カンバセーション・パートナー」と聞けば、わかりやすいかもしれない。かつて多恵子さんが教えていた語学学校では、さまざまな出身国の留学生が英語を学んでいたが、言語交換プログラムは大変人気があったのだとか。シアトル日本語学校も、日本語を母語とする人たちと、日本語を習っているアメリカ人たちが、日英両語で交流できる場にしたいと意気込む。
子ども向けクラスでは日本語だけでなく日本文化も学ぶ1月には書き初めに取り組んだ
同校は子ども向け、大人向けのクラスに分かれ、日本語が母語ではない生徒が初級・中級レベルの日本語を習っている。子ども向けクラスには9~18歳が通い、対面式授業は昨年から3クラスに増え、オンラインでも3クラスが開講。生徒のバックグラウンドはさまざまで、日系アメリカ人家庭の子どもたちだけでなく、アメリカ生まれの子どもが日本人の親に勧められて日本語を学び始めるケースも多くあるそう。親が日系または日本出身だと、わが子に日本の言語や文化を学んでもらいたい、祖父母や親戚と日本語で話せるようになって欲しい、と望む気持ちが強いようだ。日系以外の子どもたちも少なくない。年齢がわずかに足りず受講できない子どもたちのために、多恵子さんは新たに8歳児向けクラスを設け、楽しく日本文化を学べるプログラムを提供したいとも考えている。
アイデアは尽きないが、その根底にあるものはただひとつ、「日本とアメリカをつなぐ平和の懸け橋となる人材の育成に少しでも貢献したい」という思いだ。創立120周年を経て、シアトル日本語学校の発展はまだまだ続く。

現場からの声「日本語が上達していく姿を見るのが生きがい」

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京都府出身で日本語教師歴約 40年、専門は古典文学という山口恵子さん
シアトル日本語学校には10名の日本語教師が在籍。大人向けには12人以内の少人数制で14クラスが開講中で、パンデミック以降は全てオンラインに切り替わり、約150人が受講しています。大学で使われる教科書を用いて文法を学ぶ「げんき」コース、トピックに沿って実践的な日本語を習得する「まるごと」コースから選べます。大人向けのクラスを担当している山口恵子さんに生徒たちの様子を紹介してもらいます。

シアトル日本語学校の存在は以前から知っていたものの、主に日系の子どもたちが学ぶところだと思っていました。実際には大人向けのクラスもあり、IT関係の仕事に就く方、ゲームやアニメのファンなどいろいろな方が熱心に日本語を学んでいると知って、そうした自発的に日本語学習に取り組む人たちがいるならぜひ教えてみたいと求人に応募し、3年前から働き始めました。 大学やコミュニティー・カレッジなどでは単位を取るために日本語を勉強しますが、この学校に来るのは純粋に日本語に興味があり、日本人とコミュニケーションしたい、日本文化を学びたいという人たち。初めて日本語を学ぶ彼らが日々上達していく姿を見るのが、私の生きがいです。まるで赤ちゃんのおむつが取れて、一人歩きできるまでの成長過程を見ているよう。ただ、赤ちゃんもそうですが、いつかは独り立ちしてもらわないとなりません。自分の頭で考え、言いたいことが日本語で出てくるのがゴール。そのためにはどんな授業にしたら良いかと頭をひねる毎日です。言いたいことが言えたときの喜びはすぐ顔に出ます。その顔が見られるのは本当にうれしいことです。 中には授業外でも自発的に週1回のオンライン勉強会を開くような熱心な人たちもいて、そこで出た質問をまとめ役の生徒が私のところに送ってくることも。受講が終わっても勉強会は続けていくと聞いています。学習意欲を持ち続けてくれるよう、私もできる限り協力していくつもりです。

フリーランス翻訳家・通訳。外務省派遣員として、92年から95年まで在シアトル日本国総領事館に勤務。日本へ帰国後は、政党本部や米国大使館で外交政策の調査やスピーチ原稿の執筆を担当。キヤノン元社長の個人秘書、国連大学のプログラム・アシスタントなどを経て、フリーに転身。2014年からシアトルへ戻り、一人娘を育てながら、 ITや文芸、エンタメ系を始めとする幅広い分野の翻訳を手がける。主な共訳書は、金持ち父さんのアドバイザーシリーズ『資産はタックスフリーで作る』など。ワシントン州のほか、マサチューセッツ、ジョージア、ニューヨーク、インディアナ、フロリダにも居住経験があり、米国社会に精通。趣味はテニス、スキー、映画鑑賞、読書、料理。