Home インタビュー ジャン・ジョンソンさん〜パ...

ジャン・ジョンソンさん〜パナマ・ホテル オーナー兼支配人

インターナショナル・ディストリクトにあるパナマ・ホテルは、戦前から続く日本町最古のホテルとして生きた歴史を今に伝えます。40年近く前にホテルを引き継いだ現オーナー、ジャン・ジョンソンさんの「歴史を守ろう」とする情熱はどこから来るのでしょう。その知られざる半生をたどっていきます。

取材・原文:エレイン・イコマ・コウ 翻訳:宮川未葉 写真:『北米報知』より転載 ※本記事は『北米報知』2022年4月22日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

ジャン・ジョンソンン(Jan Johnson)■ワシントン州オリンピア生まれ。イタリアで長年を過ごし、シアトルに戻ってから、1985年にパナマ・ホテルを購入。同ホテルのオーナー兼支配人として当初の造りを維持しながら改装し、生まれ変わらせた。

パナマ・ホテル■戦前からの調度品に囲まれながら、国や州、郡、市から数々の認定や賞を受ける歴史的遺産の建物に宿泊できる。全102室あり、バスルームは共用。Airbnbからの予約も受け付ける。地上階にパナマ・ホテル・ティー&コーヒーを併設し、その一角は日本町にまつわる展示を行うシアトル日系米国人博物館となっている。 PanamaHotel 605 1/2 S. Main St., Seattle, WA 98104 ☎206-223-9242 、reservations@panamahotelseattle.com www.panamahotelseattle.net

アートに魅せられた幼少期

ジャンさんはいつも忙しく館内を走り回っている。宿泊客のチェックイン対応から、ツアーの実施、ボイラー室での修理、各部屋に付くシンクの蛇口の金具交換まで―腰から下げた巨大な鍵の束をジャラジャラ鳴らしながら階段を上り下りする繰り返しだ。それぞれの鍵が102 室のうちどの部屋のものかを正確に把握しているのは言うまでもない。

パナマ・ホテルはシアトル初の日本人建築家、小笹三郎氏によって設計され、1910年に完成。戦前には日本からの出稼ぎ労働者が多く滞在した。地下に設けられた銭湯の橋立湯は今も当時のまま保存されており、日本式公衆浴場跡として北米で唯一無傷のまま現存する。ジャンさんは1985年に、前オーナーからパナマ・ホテルを購入した。

ジャンさんは、ワシントン州オリンピア生まれで、両親は離婚している。父親はオリンピアに、母親はジャンさんの祖父母と共にウエスト・シアトルに住んでいたが、ジャンさんは自分のルーツを知らない。「祖父母がヨーロッパのどの国から移住したのか正確にはわかりません。父はパスポートを持っていなかったようで、不法移民でした。『国境や言葉がない』場所の出身だと話していました。父が仕事を3つもかけもちしていた理由が今ではわかります」

父親からは木工について多くのことを学んだ。「父の仕事に付いていって、食器棚の内側を塗装したり、メンテナンスの仕事を手伝ったりしたのが楽しかった。特に森林から切り出してきた木材を使って作業するのが好きでした」。幼い頃からアートに引き付けられていた。7歳になるとバスを乗り継いでコーニッシュ・スクール・オブ・アーツに通い、彫刻、デッサン、木炭で描く静物画に取り組んだ。「アート、そして手作業は今も私の“レパートリー”の一部です」

イタリアで本物の芸術に触れたい

高校卒業後、ジャンさんはとにかく働いた。初めての仕事は、オリンピアにある州議会議事堂の敷地内で果物を売ること。お金の稼ぎ方を知ったのもこの時だ。「がむしゃらに働くしか能がなかったんです。完全に自活できていました」

自身を「視覚優位な人間」だと話すジャンさんは、「本物」の芸術をどうしてもこの目で見たいと、片道の航空運賃をためてイタリアに飛んだ。ローマ到着時、手持ちの現金はたった25ドル。イタリア語もわからず空港職員に笑われたと言う。ローマで最初に暮らしたアパートは美しいロトンダ広場に面し、パンテオンを見下ろしていた。「パンテオンのドームは、その時々の光の色で全く違うように見えます。とてもきれいで、いつもうっとりと眺めていました。でも、暖房がなくて寒さに震えました!」

ジャンさんはイタリアでも多くの仕事に就いた。ある日見かけた船員の求人は、「船員」という単語が男性名詞だった。にもかかわらず、船が好きで航海の経験もあったジャンさんは、この船で働くようになった。「メキシコから帆船に乗った時も、同じ年のサンクスギビングに知人家族の船で過ごした時も、船に使われている木材の美しさに魅了されました」。勤め先の船は、たまたまこの知人の所有だった。「イタリアからユーゴスラビアに航海し、その後ギリシャでさらに多くの船に乗って、さまざまな木材に触れられました」。芸術に長けたジャンさんは、イタリアで服のデザインを手伝う仕事にも携わった。「布地を扱うのも得意だし、デザインに興味がありました」

イタリアで長年暮らしたジャンさんだが、住んでどれくらいになるか意識することはなかった。「時間の経過を追うために時計を見ることもありませんでした。覚えているのは、パスポートを数回更新したことだけ」

パナマ・ホテルの歴史を受け継いで

1980年代に入ってシアトルに戻ったジャンさんは、インターナショナル・ディストリクトに魅力を感じた。「街に活気があって、青果など食料品を売るスタンドが並び、小さな店や会社が多い。まるでヨーロッパのようで親しみが湧きました」。ジャンさんは、インターナショナル・ディストリクトのNPホテルに滞在していたが、そのすぐ近くにあったのがパナマ・ホテルだった。パナマ・ホテルは当時、前オーナーの堀 隆たかしさんと妻のリリーさんが1938年に購入し、所有していた。

初めて堀夫妻に会うと、ジャンさんは大歓迎を受ける。ある日、ホテル地下にある銭湯跡に案内されたジャンさんは衝撃を覚えた。「20世紀初頭に造られたものが元の状態で残っていたんです。本当に驚きました」。同じく地下にあったのは、第二次世界大戦中に日本人・日系人が立ち退きを強いられて収容所に送られることになったため、堀さんが一時的に保管を依頼された家財道具や荷物だ。自身も収容所に行かなければならないため、堀さんはその間、友人にホテルの維持管理を託した。「そうした歴史を学んでこなかったので、置き去りにされたトランクが山積みになっているその光景が信じられませんでした。戦争の爪痕を目の当たりにして大きなショックを受けました」

後日、ホテル売却の計画を堀さんから知らされたジャンさんは悲しみに包まれた。「トランクが失われてしまう。遠くに出かけなくても必要なものが何でもそろう、かつての日本町がなくなってしまう。歴史が今、消えようとしている」。そんな思いに駆られたジャンさんは、堀さんにホテルを買い取る提案をした。しかし、頭金を支払うために融資を受けようと銀行を回ると、どこからも断られ続けた。

パナマホテルの地下で戦中に日系人が強制収容される際に残した家財道具と共に1990年ごろ<span style=color 222222 font size 14px> <span><img decoding=async class=alignnone wp image 44295 style=color 222222 font size 14px src=httpssoysourcenetwp contentuploads2022084 JanJohnson in basement screenshot from web PS ADJ 244x350jpg alt= width=322 height=462 srcset=httpsi0wpcomsoysourcenetwp contentuploads2022084 JanJohnson in basement screenshot from web PS ADJjpgresize=2442C350ssl=1 244w httpsi0wpcomsoysourcenetwp contentuploads2022084 JanJohnson in basement screenshot from web PS ADJjpgresize=3912C560ssl=1 391w httpsi0wpcomsoysourcenetwp contentuploads2022084 JanJohnson in basement screenshot from web PS ADJjpgresize=2932C420ssl=1 293w httpsi0wpcomsoysourcenetwp contentuploads2022084 JanJohnson in basement screenshot from web PS ADJjpgw=558ssl=1 558w sizes=max width 322px 100vw 322px >

最後にバンク・オブ・アメリカに行くと、借入申込書を受け取った銀行員はこう言った。「この建物を購入したいという人はこれまでも大勢いました。その中から堀さんに選ばれたあなたは、特別な方なんですね」。こうしてジャンさんは融資を受けられることになった。

経営を始めてみると慣れないことも多く、予想外のハプニングは多々あったものの、何カ月もかけて堀夫妻が丁寧に教えてくれたおかげで軌道に乗ってきた。夫妻の息子、娘、友人家族などからも手厚い支援を受けた。

強制収容から80年

ジャンさんは、建物やその内装、調度品などを当初のまま保存するように努 めている。「総革張りのフローリングと真ちゅう製の手すりを備えた壮大な正 面階段には感服します。昔の冷蔵庫は、併設するカフェ、パナマ・ホテル・ティー &コーヒーで今も現役。原生林からの木材が未塗装で使われ、冷蔵庫が入って いた箱も素敵なんです。この箱は、再利用してクローゼットにしました」

地下には、引き取り手のなかった荷物が現在も多数保管されている。カ フェの床の一部はガラス張りになっており、カフェの利用客はそこから地 下の荷物を見ることができる。荷物は戦後、堀さんが預け主に連絡して引 き取ってもらおうと試みたが、「処分して欲しい」と言われることがほとんど だったそうだ。

ジャンさんも、ホテルを引き継いだ後、預け主に連絡しようとした。1942 年4月8日の日付がある書きかけの手紙もそのひとつだ。「お父さんへ。立 ち退きの準備はかなり進みました。全部荷造りしましたが、まだ閉じてはい なくて」―手紙はそこで終わり、続きが書かれることはなかった。ジャン さんは、手紙を書いた本人の兄弟という人をついに探し当てる。「80代の方 でした。その手紙が保存されていたこと、そしてそのおかげで気持ちに区切 りを付けられたことをとても感謝されました」

この地下室と橋立湯跡下の見学ツアー詳細については直接問い合わせを
パナマホテルに関する歴史報告書httpshistoricseattleorg

近年、パナマ・ホテルに残された生活史の保存と記録に対する関心が高 まっている。日系人史について書かれた『Sento at Sixth and Main』(2004 年)の共著者であるゲイル・ダブロウ氏の協力で、多数の物品を調査し、記録 した。8,500点の目録作成には、国立公園局の助成を受けることができた。 パナマ・ホテルを題材にしたジェイミー・フォード氏の著書『Hotel on the Corner of the Bitter and Sweet(邦題:あの日、パナマホテルで)』(2009 年)も出版され、話題になった。

パナマ・ホテルには、かつての日本町の日常が今も息づいている。「強制収 容についてよく知らなくても、ホテルを訪れれば、真実の物語、『パナマ・ホテ ルの声なき声』を感じ取ることができます。言葉は必要ありません」

当時の家具が全て残るホテルの部屋右のクローゼットは昔の冷蔵庫が入っていた箱を再利用

ジャンさんは「地下に眠っていた日系人コミュニティーからの私物、写真、 体験談に、展示を通して思いを寄せて欲しい」と続ける。「強制収容と戦争の 苦しみが二度と起こらないようにしたいのです。この建物は地域社会だけ でなく、世界のための遺産。若い人たちが歴史を学べるよう保存すべきです。 歴史を守ることは未来を守ること。銭湯を復活させて、再び運営するのも素 晴らしいアイデアだと思いませんか?」

パナマホテル前オーナーの堀さんと1990年代 Photo courtesy of Hori family

 

Elaine Ikoma Ko is the former Executive Director of the Hokubei Hochi Foundation, a nonprofit that helps The North American Post with projects and events. She is a member of the U.S.-Japan Council, an alumnus of the Japanese American Leadership Delegation (JALD) to Japan, and leads spring and autumn group tours to Japan.