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戦前のシアトル日系社会を支えた『北米時事』の歴史 ②

社員についての記事も多彩

北米時事には、社員の異動や家族の状況を詳細に掲載している記事も多く見られる。社員を大切にする、思いやりのある新聞社だったのだろう。
たとえば、1918年1月22日、28日、2月1日、13日の各号には、濱野末太郎はまのすえたろうの退職についての記事が掲載されている。濱野は親族の事業継続でニューヨークに行くため1月末の退職となった。3年間の勤労をねぎらうために、本社員二十数名で送別会を盛大に行った。同時期に退職した広告係の平井修一郎の送別会も兼ねていたようだ。濱野が大陸横断鉄道で出発の際には、「停車場に多数の人が見送り、数日後に無事にニューヨークに到着した」と記されている。
なお、東 良三による1938年1月1日号への投稿記事によると、濱野はその後に南満州鉄道の東亜経済調査局の幹部となり、戦火の上海に特派された。そこで、戦後経済の組み立てを準備する役職に就いて活躍した。
1918年2月8日号には、永戸政治がサンフランシスコ『新世界』記者より入社した記事が掲載。同上の東の投稿記事によると、永戸はその後に『東京朝日新聞(現・朝日新聞)』の論説欄の専属となった。
本社員の木下 利、中川 丘が結婚し、妻が渡米した記事が1918年5月6日、7月26日の各号に掲載されている。両者共に、写真結婚(「日米紳士協定」が成立し新規移民が家族のみに制限される中、単身男性は写真による見合いと文通のみで結婚を決め、日本から花嫁となる女性を呼び寄せた)により妻が渡米してきたのではと推察される。中川については、1919年5月17日号に男子出産の記事もある。
社員二十数名が多忙な毎日の片時の休日に、和気あいあいと楽しい1日を過ごす様子が目に浮かぶ記事もある。

「本社員ピクニック」(1918年7月29日号)
昨日日曜日、本社員ピクニック。プレザントビーチにピクニックを催し、山に遊びあるいは三々五々海辺に出て貝拾いで楽しく一日を送れり。同地にグリーンハウスを有する北山、木村両氏はわれら一行のため、種々の便宜を与え大いに歓待せられ一行は満足感謝して午後7時当地発の小蒸気に乗じて帰途に就きたり。

1938年1月1日号、東 良三の投稿記事によると田村貞次郎は1914年頃、ワシントン大学に通いながら日曜版北米時事の編集主任をしていたが、外交官試験に合格して総領事にまでなった人物。田村に関して、その後がわかる記事もある。

「漢口シアトル会」(1919年7月21日号)
シアトル人士の漢口にある北京公使館に栄転せし田村貞次郎、郵船出張所主任蛯子磯治、住友支店支配人名村豊太郎、茂木商会支配人酒井浩七、三菱商事会社日𠮷朝郎の諸氏および本社漢口支店長、前本社員平井修一郎(前項参照)等にてシアトル会を開きおれりと六千マイル外にてしばらくシアトル出身者の落ち合えるは、広いようで狭いものなり。

日本郵船、住友銀行、三菱商事などは、北米時事の広告主であった。シアトル日本人社会の発展を支え、同紙ともかかわった人たちがその後に中国で活躍する中、北米時事社の元社員と一緒にシアトルから遠く離れた異郷の地、漢口でシアトル会を作り親睦を深めていたのだ。

女性社員の投稿記事

高谷しか子は1917年に渡米し、モンタナ駐在員として活動。渡米してまだ半年だが、自身の率直な意見として、移民地において日本人のために貢献的な役目を果たす新聞社に対する公的援助を、奇抜な具体案を挙げ訴えている。

高谷しか子「新聞と記者と読者と寄稿者」(1918年3月29日号)
私は新聞社の努力を促したいと共に一般の同胞にも希望いたしたいことがある。新聞経営者がたとえ貢献的精神のものであっても機械に油が切れては回せないからいかに聖職である教師もご飯を食べずに生徒の前に立てない。されば少なくとも同胞に貢献する新聞に対しては、私たちはそれに報いるに援助をもってしなければならないだろうと考える。
(中略)私がシアトルへ着いて常盤旅館へ宿泊した時、階段を昇って左手のテーブルの上に小新聞ばかり六七種もあったのを見た。しかもこの紙を除き同シアトルで発行する新聞が二三種もあったように記憶する。このような小さい新聞ばかり発行する必要はないだろうと考える。それをもし合同して一つの物にしたら立派な新聞ができて経済的にも有益なものになる。
(中略)当地には日本人会というものがあって、有給幹事などを置いて同胞の統一を計っていると聞いている。所々に日本人会を置く費用をもって新聞記者を増やし、同胞のいる場所には必ず記者を置き、現日会幹事のする仕事をさせたらどうか。同胞が直接日会費を納める金で少し高い新聞を購読することにする。
領事の権威をもって津々浦々一人も残さず強制的にでも新聞を売りつけるようにしたら記者を置く費用は購読料から出てくる。

1918年3月29日号の新聞と記者と読者と寄稿者高谷しか子

以上の記事を読むと、北米時事の発展は多彩な卓越した能力を有する社員ひとりひとりの努力の結集によってもたらされたものだと強く実感した。
北米時事1918年1月1日、1919年1月1日の各号に、北米時事社社員一覧として掲載された人物名は以下の通り。文献などにより筆者が作成した(緑字は、本文に登場する人物。カッコ内の日付は、参照した北米時事の号)。

1918年1月1日号に掲載された社員および寄稿者などの一覧

所在

名前

備考

シアトル本社

有馬純清(桜岳)

北米時事社社長。1913年に隈元 清から引き継ぐ

宮崎徳之助

北米時事5,000号祝賀大運動会の接待委員(1918年4月15日)、 司会者(1918年4月29日)

濱野末太郎

1918年1月末退職(1918年1月22日)

木下

妻渡米、結婚披露(1918年5月6日)、 大正観光団副団長として帰朝(1918年9月10日)

桝居伍六

ワシントン大学講演 (1918年3月15日)

井口順一

「工場勤務青年の日記」(1920年1月1日)

前野邦三

連載「歳の暮」(1917年12月26日~28日)、 「主婦と家庭教育」(1918年1月1日)を執筆

平井修一郎

広告係。1918年1月末退職(1918年1月28日)

宮内 平

スポケーン支社主任(1918年1月30日~3月8日)、本社事務部(1918年4月21日)

中川

妻、鹿島丸で米上陸(1918年7月26日)

永戸政治

桑港新世界記者より入社(1918年2月8日)、 大運動会新聞委員(1918年4月15日)

有馬純夫

兄・純義を継いで日米開戦直前に主筆になる有馬純雄(推測)。1918年に渡米。戦後、北米報知創刊時の編集長

その他の名前

三澤直助

井上義隆

杉之尾一栄

武元以能子

浦川治平

中澤謙太郎

大橋源三郎(印刷部)

先山信夫(植字工)

石田千代子

川上太吉

岡ノ上よし子

古川藤太郎(植字工)

有馬千里

橋口良雄

深山庄作

山上 利

西尾正雄

西川いちよ

西宮豊年

中尾 佐

村上藤介

西田征司

中川てる

山本きぬ

中川吉野

東京

隅元 基

初代社長・隅元 清の親族(推測)

隅元政枝

隈元未亡人(推測)。東京で転居(1918年7月13日)

杉之尾正一

初期経営者のひとり

日本

濱野末太郎

帰国(1918年10月25日)

良三

寄稿「三昔前の憶ひ出 ―シアトルと北米時事と僕と」(1938年1月1日)

その他の名前

吉田興山

荒井達彌

ポートランド

有馬純義

1917年渡米、ポートランド支店主任(1918年8月24日)。パシフィック大学通学の傍らで働く。後に父を継いで社長・主筆

ロサンゼルス

藤岡鐵雪(紫朗)

1906年11月より北米時事社に勤務。寄稿「戦後の米国」(1918年1月1日)

清澤 冽

退職後帰朝(1918年9月23日)。宮川生糸商会入社(同12月3日)。1927年に東京朝日新聞社に入社。後に日米関係の評論で知られるジャーナリスト

サンフランシスコ

その他の名前

山中曲江

高村経徳

山本宗兵衛

オークランド

翁 六溪

大谷花壇

ニューヨーク

江之澤謙治

佐々木指月

モンタナ

高谷しか子

「5000号記念」寄稿(1918年3月29日)

バンクーバー

胎中橋右衛門

来沙 (1918年2月11日、3月21日)

山本一郎

漢口

田村貞次郎

元北米時事社員、その後に漢口領事館補(1919年2月14日)、北京公使館(1919年7月21日)

社友

山田純牛(作太郎)

創業当初の主筆

初鹿野梨村(詮次郎せんじろう

初期北米時事総合指令役、後に寄稿者「発するに望んで」(1919年4月19日)

高畠淡影(虎太郎)

「一日一人人いろいろ」(1919年2月18日)、 シアトル国語学校(現・シアトル日本語学校)校長、以前に北米時事記者

中島梧街(勝治)

寄稿「北米時事と私」(1918年3月29日)、 「シアトル総まくり」で紹介(1918年1月1日)

山岡音高

1902年、新日本創刊。大学生倶楽部で講演(1918年3月2日)

その他の名前

藍澤崇山

大澤保次郎

佐々木黄瓦洞

松本秋堂

東 不泥

阿部雄三

 

5,000号記念

1918年3月29日で発行5000号に達した

創刊から16年が経った1918年、発行5,000号に達した北米時事は、その節目を大きく祝った。創刊時発行人だった隅元から、会社の経営が有馬純清へ引き継がれた1913年から5年後のことだ。
1918年3月29日号の新聞は5,000号記念ということで、本紙に関係記事と付録32ページが掲載され、5,000号祝い一色となっていた。広告も全てに「祝5000号」と書かれ、シアトル在住日本人を挙げて祝した。
松永直吉領事は「北米時事の第5000号を祝す」として「創刊以来16年経過し、今日の盛況は本紙の経営者と従業員の不断の努力によるもので、敬意を表する。北米時事は在米同胞の大多数に対し知識と慰安を供給し、同胞社会の発展に極めて大きな貢献を果たした」と評した。後にアメリカ大使となる、当時サンフランシスコにいた埴原正直通商局長からの祝辞もあった。

1918年4月29日号の本紙五千号運動会記事とシアトル少年義勇隊写真

3月30日号「本紙5000号祝会」の告知には、「3年前、4000号の祝会を日本館で開きたる時、会衆場外にあふれて、不満足の向きも少なからず。この経験により、今回5000号祝会は野外において園遊会を開くことに内決。追って天候を見て期日場所その他順序を発表予定。在留同胞全部そろっての来会を希望す」とある。以下は、1918年4月29日号より。

「本紙5000号運動会」(1918年4月29日号)
昨日開催した本紙5000号祝賀大運動会は朝来まれなる快晴で大成功という一語につき、本社の光栄とするところである。会場リバチー野球場はシチーリーグの発起で昨年建造され同胞間、多額の株を応募している縁深い会場であったが、同地開設以来、3,000名もの入場者のあったことは記録を作った。(中略)宮崎記者の司会で、有馬社長の挨拶の後、連絡日本人会松見会長は「5000号が達成できたのは社員の奮闘、力の結果だ」と北米時事の社員を讃えた。来賓として松永領事夫妻、高橋東洋貿易、工藤正金銀行、菊竹正金銀行、古屋政次郎、郵船香取丸戸沢船長らが訪れた。(中略)子どもから大人までの各種競技、仮装行列が行われ、特に野球大会は盛況であった。競技の合間にシアトル少年義勇軍が日米両国旗を振りかざして行進し、最後に綱引きと社員競争があり、祝賀運動会は終わった。

③へ続く・・・