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特集 宇和島屋 創業の歴史と今

シアトルの日系スーパーマーケット、宇和島屋(うわじまや)。コミュニティーに根づいた家族経営を行う同店は、米国で最も成功した日系スーパーとして日本からも注目されています。今回はそんな宇和島屋の歴史をひも解きます!

 

宇和島屋創業者
森口 富士松さん

寄稿:愛媛大学准教授
佐藤 亮子

愛媛県八幡浜のミカン農家からタコマへ

ワシントン州における最初の日本人の足跡は、文献によれば1881年、愛媛県人の西井久八氏のシアトル入港であるという。彼は愛媛県の西南に位置する西宇和郡八幡浜(現八幡浜市)の出身。そして「宇和島屋」創業者である森口富士松(もりぐちふじまつ)氏の故郷もまた、同じく愛媛県八幡浜なのである。

1970年にキングストリートに開店した旧シアトル店2000年に現在のシアトル店である宇和島屋ビレッジがオープンすると同時に閉店した

森口富士松氏は、1898年、八幡浜市川名津(当時は西宇和郡川上村川名津)のミカン農家に生まれた。5人兄弟の長男で、下に妹が3人と弟がいた。八幡浜は農業と漁業の町で、人々は半農半漁で暮らしており、農業の中心はミカンである。しかし、八幡浜にミカンが導入されたのは明治時代に入ってからであり、今でこそ「真穴(まあな)」「日の丸」など全国に知られるブランドが確立しているが、当時はまだ試行錯誤の時期であったと思われる。中でも森口家の農業は小規模であった。富士松氏の次男で、宇和島屋の元代表である森口富雄(もりぐちとみお)氏によると、「畑は少なく、ミカンの木30本くらい」だった。

小規模とはいえ、長男である富士松氏は、家業である農業を継ぐことを期待されていたはずである。にもかかわらず、彼は、中学を卒業するとすぐ家を離れ、隣町の宇和島に出て働き始める。そこで数年間、ジャコ天やカマボコなどの食品加工および商売の経験を積んだ。さらにはその後、宇和島をも後にし、アメリカへと旅立つのである。

前述の西井久八氏を筆頭に、八幡浜からは少なからぬ人々がアメリカに渡っていた。愛媛は、「移民県」と呼ばれる沖縄、熊本、福岡、山口、広島、岡山、高知、和歌山などに比べると、移民総数は少なかった。だが、愛媛県内の傾向を見ると、八幡浜を含む西宇和郡の、中でも海岸集落からの渡航が県総数の3分の1強を占めている。その中でも、上泊、川名津、真穴が特に多かった。先陣をきって渡航した者のなかには、渡航先の地で成功していた人も何人かおり、その様子は八幡浜にも伝わっていた。例えば西井久八氏は、シアトルにレストランを、タコマにホテルやクリーニング店を経営し、羽振りがよかった。その後、彼のような成功者が一時帰国のたびに渡航希望者を同行してアメリカに戻ることもあり、シアトルやタコマ周辺に西宇和郡出身者のネットワークができていったものと思われる。西井氏以外にも、愛媛県からの移民者の多くがレストランやホテルを営み、あるいはコックとして働いていた。富士松氏が食品関係の道を選んだのも、それら成功者の後を追おうとしたのではないかと考えられる。

魚商人としての出発と蔦川氏との出会い宇和島商店の創業

さて、富士松氏は1923年、24歳でアメリカに到達する。彼はまず、タコマの同じ川名津村出身者のもとに身を寄せ、働き始める。最初は農家で、その後レストランに移り、ついには「メイン・フィッシュ・カンパニー(メイン魚店)」というシアトルの日本町・メイン通りの魚店で働くようになる。

メイン魚店は広島県出身の木原岩吉氏(1898年渡米)が1904年に開いた、シアトルにおける日本人魚商の草分け的存在であり、腕の良さでも知られていた。すでに宇和島で魚の加工を学んでいた富士松氏は、このメイン魚店で、アメリカにおける魚商の勉強をしようとしたものと思われる。メイン魚店は魚に加え、味噌や醤油、コメなどを製材業や漁業、農業に従事する日本人に販売してまわっていた。

シアトル・メインストリート店の前に立つ富士松氏。終戦後にシアトルへ移り住み、「宇和島屋」とし
て最初に開業したのが、このメインストリート店だ。1970年に、キングストリートへ移転した。

メイン魚店の同業者に、蔦川彰三(つたかわしょうぞう)という人がいた。岡山県出身の蔦川氏は1902年に渡米。1905年に「日米仲買商会」を岩村次郎から共同で譲り受け、1914年には全経営を蔦川氏が引き継いで「蔦川商会」となった。事業内容はメイン魚店同様、農家や製材・鉄道敷設に従事する日本人が住むキャンプをまわって注文をとり、配達するというもの。食料品の販売だけでなく、洋服や美術品の販売、時には英語が話せない日本人の世話をもした蔦川氏の事業は急速に拡大。1921年には神戸にも事務所を構え、木材や金物を日本に輸出するようになる。

日本人を主な顧客とする日本人によるビジネス従事者同士、富士松氏と蔦川氏はほどなく知り合いになる。富士松氏は蔦川氏のビジネスから学ぶとともに、同様の事業のチャンスがタコマにもあるのではないかと考えた。そして、メイン魚店にも蔦川商会にもない技術を自分は持っていると考え始める。そう、渡米前に宇和島で学んだ、ジャコ天やカマボコ、さつま揚げなどを作る技術である。そうしたものを扱っている店は他にはなかった。富士松氏は自分の事業をスタートさせるべく、メイン魚店を辞めてタコマに戻り、1928年、タコマの日本町で「宇和島商店」(後の宇和島屋)を立ち上げた。新事業の手伝いのため、弟の才助(さいすけ)氏も愛媛から呼び寄せた。日本町の店舗は才助氏にまかせ、富士松氏自身は外商を担った。午前中にカマボコやさつま揚げを作り、午後はトラックの荷台に食料品を積んで、鉄道や漁業、農業、製材所で働く日本人移民に販売してまわったのだ。

1940年にタコマ店の前で撮影した森口家の家族写真後ろに立つのは富士松氏と貞子さん下に立つ子供たちは左から三男アキラ氏次男富雄氏長女スワコ氏長男ケンゾウ氏タコマ店は1928年に宇和島商店として開業1942年の日本人強制収容までタコマの日本町に住む日系人に日本食材を販売していた

貞子さんとの結婚と、子どもたちの名前に込めた故郷への想い

富士松氏の努力を惜しまない勤勉な働きぶりに注目していたのが、蔦川氏である。彼は富士松氏を、9人いる子どものうち三女・貞子さん(1907年シアトル生まれ)の夫にふさわしい人物と考え、引き合わせた。富士松氏と貞子さんは2年間の交際を経て、1932年に結婚。タコマに新居を構え、二人三脚で宇和島屋を切り盛りしていくことになる。一時帰国し、祖母から日本人としての教育を受けていた貞子さんは、俳句や書道、能や歌舞伎を嗜み、美術や音楽の素養も持ち、その一方で宇和島屋を支えるという自身の役割をわきまえた、聡明で能力の高い女性であった。

やがて四男三女を授かった2人は、子たち全員に日本人の名前をつけた。「父は日本に帰るつもりだったのだ」と富雄氏は振り返る。いずれ日本に戻る。だから、日本名は、子どもたちも日本人として育てようという意志の表れであったろう。農家の長男であった富士松氏が八幡浜を出てアメリカに渡ったのは、家族を、故郷を、豊かにしたいという思いからだったのだ。

例えば、長女スワコさん(1935年生まれ)は6歳で富士松氏の故郷・八幡浜に渡っている。折しも太平洋戦争の開戦目前で、もちろん戦争を避ける意図もあったであろう。しかし、「それだけではなかったのではないか」とスワコさん自身は話す。日本の生活をさせる意図もあったのではないかと思われるのだ。スワコさんは、終戦から2年後に13歳でアメリカに戻る。「つらい思いもしたが、日本で過ごしたおかげで、私は日本語を話せる。それは良かったと思っている」という。

顔はこわかったけど、とても優しい人だった

「厳しい父親であった」という、富士松氏に対する共通した印象もまた、子どもたちを日本人として育てるという富士松氏の意志を裏付ける。子どもたちは、茶碗が空になるまで席を立つことは決して許されなかったし、帰宅時間も厳守を求められたという。富士松氏には、自分の信念を曲げない頑固さがあった。寡黙だが、よく働き、よく呑み(酒もタバコも)、囲碁や将棋が好きな、まさに伝統的な日本の父親像そのものである。富士松氏の厳しさは「宇和島屋の事業において良い影響をもたらしていたのではないか」、と長男のケンゾウ氏は語る。そして、「今の自分たちの性格も、父の厳しさを受け継いでいる」という。

厳しい反面、困った人を見ると放っておけない富士松氏の面倒見の良い性格も浮かびあがる。「父は顔はこわかったけど、とても優しい人だった」とスワコさんは微笑む。「いろんな人を家に招き入れてはご飯を食べさせ、車のない人には配達用のトラックを出してあげていた」という。妻の貞子さんも、それをとがめるようなことはなかった。「母はしょっちゅう、留学生にお茶漬けかなんか食べさせていたね」と富雄氏。スワコさんも、「家族だけで食事をした記憶がない」「お正月なんか100人以上いたんじゃないかな」と話す。富士松氏は大の子ども好きでもあり、いい匂いに引かれて店にやってくる子どもたちに、熱々のさつま揚げやトモエ飴(ボンタン飴)をあげていた。

強制収容、戦後の再興、そして次世代へ

1939年に三男のアキラ氏が誕生。1942年、日本人・日系人の強制収容所への収監政策が始まると、前年八幡浜に移っていたスワコさんをのぞく森口一家は、パインデール集合所(カリフォルニア)を経てツールレイク収容所へ送られた。集合所でヒサコさんが、収容所でトシ氏とトモコさんが生まれ、9人家族となった。終戦後、森口家はタコマからシアトルに移り住み、日本町で「宇和島屋」を再興する。そして1960年にスワコさんは長女ジェイミーさんを出産。富士松氏にとっては初孫である。このことが、富士松氏の気持ちを変えたのではないかと、富雄さんは見ている。「孫が生まれたことで、日本に帰るという気持ちが薄くなっていったように思う」と富雄さんは言う。

それから2年後の1962年、4月から10月にかけて6カ月にわたって開催されたシアトル万国博覧会に宇和島屋は出店する。万博出店は富士松氏の悲願であったというが、これが宇和島屋のその後を左右する大きなエポックメーキングな出来事となる。万博出展を機に、シアトル市内での知名度をあげ、日本人以外の顧客層を増やしていくことになる。一方で、後に二代目代表になる富雄氏は、当時体調を崩していた富士松氏に請われて万博の手伝いをしたのを契機に、家業を継ぐ決心をする。富雄氏は、ワシントン大学卒業後に勤務していたボーイング社を退社し、他の4人の兄弟と共に、本格的に宇和島屋の経営を担い始めた。そして同年、富士松氏は64年の人生を閉じるのである。

「遅すぎたよ」。富雄氏もスワコさんも、インタビューの最初に口にしたのがこの言葉だった。富士松氏没後55年の今、彼の人生を正確に探り当てるには遅すぎるという意味であろう。だが、「遅すぎた」の奥に、生きているうちにもっときちんと評価されるべきであったという、富士松・貞子夫妻を含む日系移民の尊厳とその存在に対する敬意の念があるのではないか。そんなふうに考えるのは、うがちすぎだろうか。

●参考文献●
奥泉栄三郎監修「初期在北米日本人の記録』第3期:北米編、文生書院(2008)
村川庸子「アメリカの風が吹いた村〜打瀬船物語』財団法人愛媛県文化振興財団(1987)
伊藤一男「続・北米百年桜』北米百年桜実行委員会(1972)
Kristine Sullivan Ed.D. and Johnna L. Howell, “WIDE AWAKE IN SEATTLE ; Success Stories of Outstanding Leaders Who Learned to Share Leadership”
TSUTAKAWA FAMILY TREE 2014
THE UWAJIYAMA STORY
TOMIO-PERSONAL-FAMILY HISOTRY(2011.11)
森口富雄氏ヒアリング(2016.9.19, 2017.3.10)
モリグチ・ケンゾウ氏ヒアリング(2016.9.18)
マエダ・スワコ氏ヒアリング(2016.9.20)
渡部美紗緒氏ヒアリング(2016.9.20)

佐藤亮子(さとう りょうこ)
愛媛大学准教授。同大学グローカル地域研究ユニットで、宇和島屋研究プロジェクトの代表を務める。昨年から今年初めにかけてシアトルを訪れ、宇和島屋経営者一族である森口家へのヒアリングや、店頭リサーチなどを行う。