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ゲームデザイナー 安原広和さん

8月から始まったNetflix配信のオリジナル・ドキュメンタリー番組「ハイスコア: ゲーム黄金時代」は、ゲーム史がアメリカの視点から描かれ、日本からも業界のレジェンドたちが続々登場し、話題を集めています。今回はその第4話に登場するセガの黄金時代を支えた立役者のひとり、安原広和さんにインタビュー。日米のゲーム業界を渡り歩き、現在は教育者として後進を指導する安原さんに、自身のキャリアからこれからのゲームの可能性まで、たっぷりと語ってもらいました。

取材・文:ハントシンガー典子 写真:本人提供

安原広和■日米のゲームスタジオで「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」シリーズ、「アンチャーテッド」などのゲームデザインを手がけた後、ユニティ・テクノロジーズ・ジャパン合同会社に参加。現在は、東京工科大学でゲームデザイン教育にも客員准教授として携わる。

80年代黎明期のセガに入社

1988年、バブル真っただ中の日本で、青年は運命的にゲーム業界の魅力に引き付けられ、就職を決めた。「YMOが流行り、シンセサイザーの音にあふれていた時代。デジタル文化に憧れもあったかと思います」と、安原さんは振り返る。

東京理科大学工学部の出身。ゼミ仲間が大手電気機器メーカーに推薦で次々と就職を決めていく中、ひとりゲーム業界に目を向けていた安原さんは異端の存在だった。安原さんが足を運んだのは、今年で誕生40周年を迎える名作アーケードゲーム「パックマン」を生み出したナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)の会社説明会。「やる気満々で乗り込んだものの、会場に300人もの希望者がいる中、採用はたった5人と発表され、これは無理だと思いました」。早々に会場を出た安原さんだったが、ふと思い立って同じ蒲田駅の周辺にあったセガに電話をしてみた。セガはこの頃、アーケードゲームで名が知られるようになってきていた。「採用があるかどうか問い合わせたところ、今すぐ来られるかと聞かれ、ナムコに提出するはずだった書類を持って、そのままセガに行きました(笑)」

安原さんも出演するNetflix配信番組ハイスコア ゲーム黄金時代ではファミコン世代には懐かしいエピソードがたくさん飛び出す

紅茶とケーキが出されるなど、アットホームな雰囲気の中での面接。安原さんは見事、合格となった。「縁としか言いようがないですよね」と、安原さんは笑顔を見せる。大ヒットした「ファミリーコンピュータ」の前、1977年に任天堂が発売した家庭用ゲーム機「カラーテレビゲーム15」で子どもの頃から遊んでいた。遊園地にあるような大きな乗り物を動かすゲーム機が造りたかったと話す安原さんは、不思議な偶然がきっかけでゲーム業界に入った。そして、後にセガ最大級の名作を生み出すことになる。

ソニックのおかげでつかんだアメリカ行きの切符

安原さんの人生の転機となったのは、今年公開のハリウッド映画「ソニック・ザ・ムービー」の主人公でもある大人気キャラクター、ソニックを初めて起用した1991年発売の名作ゲーム「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」の成功だ。安原さんはディレクター、プランナーとしてゲームデザインを担当し、キャラクターデザイナーの大島直人さん、プログラマーの中 裕司さんらと共にソニックを一から作り上げた。「最初の発表ではソニックの姿が変だと炎上していて心配しましたが、最終的には原作に近い、ファンも納得のデザインに差し替えられたので良かったです。ここまでの人気になるまでソニックを作り続けてくれた後輩たちには感謝しかありません」

2019年の東京ゲームショウで指導した学生の作品を展示

当時、マリオを使った人気作を連発していた任天堂に対し、会社を象徴するキャラクターを作る必要性を感じていたセガ。折しも、家庭用ゲーム機はそれまでの8ビットから16ビットに移行し、ゲームの情報量が各段にアップしたタイミングだった。セガのロゴと同じ青い色をしていて、回転しながら高速で移動するハリネズミのソニックが、16ビットならではのスピード感あふれるアドベンチャーゲームで大活躍。ソニックはセガを代表するキャラクターとなり、セガ会心の16ビット家庭用ゲーム機「メガドライブ」と共に1991年のクリスマス商戦を見事に制した。「全米でのヒットを受け、セガ・オブ・アメリカに私も駐在員として赴任しました。ソニック・チームでは1991年から2002年まで働き、『ソニック・ザ・ヘッジホッグ2、3』の開発にも携わりました」

セガはアメリカ市場で任天堂を下し、業界トップの地位にまで上り詰めた。しかし、日本のセガ本社の「お家騒動」により、その風向きが変わっていく。「ソニック・チームで一緒だったマーク・サーニーに、ソニーにゲームデザイナーの募集がないか聞いてもらいました。ノーティドッグに空きがある、グリーンカードもサポートしてくれると言われ、それならと行くことにしました」。ノーティドッグは後にソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)傘下になるゲーム会社で、サーニーさんは開発チームに加わっていた。2002年、安原さんはアメリカにとどまったまま転職を果たし、その後はノーティドッグでサーニーさんと共に「プレイステーション2、3」向けに、「ジャック×ダクスター」シリーズ、「アンチャーテッド エル・ドラドの秘宝」などのゲームデザインを担当した。

アメリカのゲーム産業の強さを実感

日本に戻って転職することは考えなかったのだろうか。「日本のゲーム業界で30、40代と言えば、現場を離れてマネジメント職に就くことが多い。現役でやっていきたいという思いがあったので、帰る気にはなれませんでした」。2000年前後はちょうど2Dから3Dへとゲームが劇的に変化を遂げていた時代だ。そして、ゲーム産業はアメリカが主戦場となっていく。「日本では偏見があるのか、ゲーム好きだけが集まるような業界でしたが、アメリカのゲーム会社は軍事産業からの技術者もいて、本物の知識を生かした見事な3Dシミュレーションゲームを作るわけです。日本のゲーム産業が逆転されたのは、アメリカの人材の多様性によるところが大きいのでは」

初めて担当したゼミ生たちと

まだセガに在籍していた1995年、安原さんはウォルト・ディズニー・イマジニアリングとの共同プロジェクトに携わっている。世界中のディズニー施設の設計に関わる会社が、どうしてセガと仕事をすることになったのか。「フロリダのディズニー・ワールドにあったゲームセンター改善にセガが協力することになったんです。私はそれまで、エンタメというものは感覚で作っていく部分が大きいように思っていたのですが、才能あふれるプロ集団の仕事ぶりを目の当たりにして考えが変わりました。リサーチ資料を見せてもらったら、あらゆる方面からの細かい情報があり、日本文化についてもよく研究されている。日本へのリスペクトもすごい。さまざまな分野のプロフェッショナルがチームを作り、知識、向き合い方、セオリーを共有することで、世界のディズニー・クオリティーが守られているのだとよくわかりました。日本では、突出した才能を持つクリエーターは多くいるけれど、その人しか作れない。エンタメ王国たるアメリカの強さを思い知りました」

キャリアについては深く考えていなかったと話す安原さんだが、ディズニーとの仕事でいろんなことを学び、実際にアメリカで働く経験をしたあとで、アメリカに残る選択をしたのは自然な流れだったのかもしれない。「働き方の違いもありますね。日本のゲーム業界ではずっと会社にいることが当たり前でしたが、アメリカでは家に帰れるので。もちろん、渋滞がひどいとか、治安が悪いとか、そういった問題はありますけれど」。私生活では1991年に結婚し、2000年には子どもも生まれた。そこで安原さんには、予想もしていなかった葛藤が出てくることになる。「ノーティドッグが、巷で人気のリアルなシューティングに力を入れるようになり、開発するゲームの方向性が変わったんです。子どもがいる身として、人を殺すゲームを作りたいとは思わなくなってしまって」。2008年に移った会社はなんと、かつて就職をあきらめたナムコの子会社、バンダイナムコゲームス(現バンダイナムコエンターテインメント)。「ロサンゼルスからサンノゼに引っ越して、100倍住みやすいと感じました。ナムコでは『パックマン』の新シリーズなどを担当していました」。ところが、やがて開発部署がなくなり、アメリカでは営業スタッフだけが残ることに。そこで2012年に入社したのが、セガのライバル会社であった任天堂の北米拠点のひとつ、レドモンドにあるニンテンドウ・ソフトウェア・テクノロジー・コーポーレーションである。「子どもの頃から任天堂のゲームで遊んでいましたし、1度は入ってみたいという気持ちがありました。結局、そんなに長くはいませんでしたけれどね」

これからのゲーム産業を支える人材を育成

安原さんは2016年からユニティ・テクノロジーズ・ジャパンでゲームデザイン教材制作を行い、2018年からは東京工科大学で人材教育の実践に当たっている。日本でのゲームデザイナーと教育者の二足のわらじ。かなり大きな決断のように思えるが、安原さん自身はあくまで自然体だ。「塾講師のバイト経験から、実はずっと先生にもなってみたかった。人生でやり直したこと、と言ったら大げさかもしれないけれど、それが教育に携わることでした」

Unityのイベントで登壇2018年に撮影

ユニティ・テクノロジーズ・ジャパンは、ゲーム開発ツール「Unity」をゲームクリエーターに提供する会社。安原さんはこのUnityにほれ込み、Unityを使ったゲームデザインのチュートリアルを自ら作り、ユニティ・テクノロジーズ・ジャパンに売り込んで、現在の仕事につながった。「材料があっても設計がないと建物を造れないのと同じで、テクニックだけあっても、プレイして楽しいゲームは作れない。教材がないなら自分で作ってやろうと思い立ちました」。

2020年東京工科大学は世界同時開催されるグローバルゲームジャムの会場となり番組の放送を行った

日本最大のゲーム開発者向けカンファレンス「コンピュータエンターテインメントデベロッパーズカンファレンス」(CEDEC)を通じて顔見知りとなっていた東京工科大学メディア学部の三上浩司教授の協力もあり、東京工科大学では特任准教授として教壇にも立ち、教材を使って実際に学生たちにゲームデザインを指導している。「大学はこのコロナ禍でオンライン授業となり、ユニティ・テクノロジーズでの仕事もずっとリモートです」。シアトルに残る家族とのコミュニケーションも、もっぱらビデオ通話だ。「なるべく食事の時間を合わせ、顔を見ながら食べるようにしています。テクノロジーが距離を縮めてくれます」

今年5月には東京大学情報学環でゲームデザイン論の講義を行うなど、教育者として存在感を増している安原さんは、自身も手ごたえを感じている。「学生たちに喜んでもらえるのが何より。業界標準となりつつあるUnityは本当におすすめなので、小学生もどんどんゲームを作ってみて欲しい。わかりにくいプログラミング教育より、何か形になるものを実際に作ることのほうが大切。折り紙や粘土遊びと一緒です。デジタル・ネイティブの子どもたちは、画面の中で砂山を作って、ビー玉を転がせばいい」

2019年タイからの交換留学生たちにも授業

一方で、常に新しいテクノロジーのアップデートが必要な最近のゲーム業界は大変だとも付け加える。現在、求められる人材とは、テクノロジーが使えるだけではなく企画ができるなどあらゆる分野に精通し、教養の備わったリベラルアーツ系の学生。そういう人材が「ものを作れる」と重宝される傾向にある。「アメリカではさらにその上のスペシャリストであることを求めるように感じます。ものすごくリアルなモンスターを作れる、というような自分だけのスキルや『強み』を持つことも大事」。また、ゲーム作りを学ぶことは、ゲーム業界以外でも役立つと強調する。「医療、教育、建築、工業、金融など、エンタメ以外のさまざまな分野でゲームテクノロジーの活用が始まっています。たとえば、大手企業の職業訓練にも取り入れられています。VR(仮想現実)やAR(拡張現実)のゲームを駆使し、配線やネジの順番などを若者が実践的に学ぶことで安全性が高まるという具合です。医療分野でも、キャラクターが闘病を応援するゲームが患者さんたちの癒しになるなど、新しい市場が広がっています。30年この業界でやってきて、ようやくゲームが日の目を見るようになりました(笑)」

安原さんは、「これからは会社に入らなくてもゲームを作れるようになっていく」と続ける。「自分でアプリを作れる時代となり、広告収入の仕組みもある。15秒ほどの短くても魅力的なゲームがたくさん登場している。この新しい潮流は、コロナ禍で加速するかもしれない」。自身の将来のビジョンについては何もないと話す安原さん。ただ、シアトルに戻っても何らかの形でゲームと教育を軸に仕事を続けていければ、と考えている。

子どもでもできる!楽しいゲームの作り方
安原さんが作成した小中学生向けのUnity教材「あそびのデザイン講座」は専用サイト(https://create.unity3d.com/jp-asobi-design)から誰でも無料でダウンロードできる。また、楽しさを形作るための思考法について解説する動画(https://learning.unity3d.jp/series/asobi-no-design/)も公開中。ゲームデザインとは何か、どうしたら面白くなるのか、安原さんが初心者向けにわかりやすく指南する。