Home アメリカ生活 第4回 食事の支度を卒業

第4回 食事の支度を卒業

団塊の世代の日本人が今直面する、親の介護。高齢の父母の暮らしを手助けするために、日米を往復する夫婦の暮らしとは?

 

「卒業」という表現が多く使われるようになりました。学業を修了することだけでなく、アイドル・グループを去ることも、出演番組から降ろされることも、全て卒業の言葉でひとくくり。その言い方をすれば、私のふたりの母は食事作りを卒業した女性たちです。高知の義母の場合、その卒業は突然起きました。4年前、牛乳を温めようと台所に立ち、倒れたそうです。15分ほどして気付いた義父が救急車を呼び、医療センターへ。脳梗塞でした。発見が早かったので血栓を溶かす薬を使うことができ、命を取り留めました。私たち夫婦はたまたま東京にいたので、翌朝早く羽田から高知に向かいました。左脳に梗塞の起きた母は、体の右半分にマヒが出ました。また、言語をつかさどる機能の大部分は左脳にあるとのことで、その言語機能が損なわれて失語症に。口から音が出ないだけでなく、考えと言葉の結び付きがプツンと断ち切られてしまうのです。

緊急治療病院での2週間とリハビリ病院での3カ月を経て、母は退院しました。その間、療法士の指導で口から出る音が少しずつ増え、字を見て物を指し示す練習や、絵を見て物の名前を言う練習などを重ねました。退院後は毎日、音読、足し算、引き算に取り組むなど一連の課題を、「お勉強」と言って義妹と共に繰り返しました。努力の甲斐あり、ひと言も物が言えなかった母も、今では短い電話をかけられるまでになりました。

私にできることは、病気で味覚が変わり、喉も半分マヒしている義母に、喜んで食べてもらえる食事を用意することです。福岡の私の実母は、食事作りを徐々に卒業しました。6年前に父が亡くなり、ひとりになった母は、父の一周忌法要を前にうつになったのです。食欲もなく体がしびれ、ベッドから起き上がれなくなった母。妹と私は、父の法事以前に母の葬儀を出すことになるのではと心配したほどです。かかりつけの医師に診療内科の受診を勧められ、私と妹だけでなく弟夫婦も加わって、交代
で実家に滞在。つきっきりの日々と投薬で、なんとか乗り切ることができました。「女やもめに花が咲くと言っても、90歳になって初めてひとりになると毎日が寂しくてたまらない」と言う母。配食サービスも試したものの、気に入らずに終了。幸い、東京にいた妹夫婦が退職後は車で1時間ほどのと
ころに越して来てくれており、今も妹が毎週何日かずつ泊まり込んでいます。

帰省した私にできることは、この母の昔話に耳を傾け、食事を準備し、「おいしいね」と一緒に食べることなのです。

福岡県生まれ、九州大学法学部卒。1988年より11年余り北米報知編集長を務め、1993年に海外日系新聞協会・優秀記事賞を受賞。冊子「ワシントン州における日系人の歴史」(在シアトル総領事館、2000年)執筆。