Home アメリカ生活 佐々木孜さん 〜日本の家族...

佐々木孜さん 〜日本の家族の近くで新しく根を張る人生

私たち、シアトルから日本への帰国を決めました

日本の家族の近くで新しく根を張る人生
佐々木孜さん

アメリカ滞在のスタートは、1963年から1年間のオレゴン州への高校留学。1979年よりシーファースト・バンク(現バンク・オブ・アメリカ)本店勤務。1990年から2007年まで元同僚と共に投資顧問・貿易業務を行う会社を経営。2008年に個人で貿易会社を立ち上げ、現在に至る。ワシントン州日米協会2006-2007年会長、シアトル日系人会2010-2012年会長を務める。

大いに楽しんで、好きなことをして過ごしてきたシアトル滞在も35年を超え、72歳になった2017年、終活の一環として自分や家族の状況を考えてみたのが日本帰国のきっかけです。はっきりしているのは、(1)精神的若さは保てても、身体的には決して若くはならない、(2)シアトルで育った娘ふたりも、日本の男性と家庭を持って暮らしている、ということで、万一われわれ夫婦に何かあれば、日本にいる家族に大きな迷惑がかかる。シアトルの親しい友人3名が相次いで亡くなったり、娘たちから「休暇で子どもたちを連れて帰る実家が日本にはない」などと言われたりしたこともあり、日本の家族の近くで過ごしたほうが、もっと地に根の生えた人生が送れるのではないかと思うようになりました。年を増すごとに古い友人たちと再会する機会も増え、「そろそろ日本に帰って来い」と言ってくれます。長年のシアトル生活から日本へのUターン。これは3年ほどの準備期間は必要、と見積もり、75歳になる2020年までに計画し、実行することを決心しました。

日本ではその味新鮮さに加え季節を感じる食が豊富これはアメリカ生活にはなかったこと

まず取りかかったのは家の中の片付けですが、これが大変でした。愛着があり、捨てがたい物がいろいろ出てくる中、妻との合意により日本に送れるのは各自ひとつとし、残りは全て、思い切って知人に譲ったり、グッドウィル、教会、図書館などに寄付したり、トランスファー・ステーション(ゴミの中間処理施設)に持ち込んで捨てたりで、何往復もしました。これは良いアイデアだったと思います。日本の家は思っていた以上に小さく、カーペットや家具類の大半は間尺が合わなかったり、衣類もシアトルでは普通に着ていたものが、日本では流行があるせいか浮いた感じになったりします。

自宅の売却は、幸いマーケットも良い時期だったためスムーズでした。ただ、売却時期と日本への帰国時期には要注意。米国での住居買い替えに通常税金はかかりませんが、日本で買った住宅は米国では住居とみなされず、キャピタルゲイン税を支払わなければなりません。そのタイミングを慎重に見極めました。家を売却後、帰国までの2年間は、近くにアパートを借りていました。ペットの引っ越しもひと苦労でした。トイプードルを飼っていたのですが、2020年1月時点では半年以上前に狂犬病抗体価検査を受け、その数カ月後にはかかりつけ獣医に結果を含めたワクチン接種証明を手配、病院の指示に従い日本への出発72時間以内にオリンピアの米国農務省動植物検査局に出向き最終許可証明書を取得、日本到着時には空港動物検疫所窓口にペットとその証明書を持ち込み、輸入許可を取ることが必要でした。引っ越し作業もある中、時間に追われて慌ただしかったことを覚えています。そして日本に着くと、住民登録、銀行口座開設を始め、山ほどの手続きがあります。私は引っ越し専用ノートを作り、それぞれの口座番号、オンラインIDやパスワードなどを1カ所にまとめておくようにしました。あとで情報の混乱が避けられ、とても便利です。昨年夏には全ての引っ越し作業が完了する予定でしたが、新型コロナウイルスの問題が起こったため、計画中断。昨年2月の訪問を最後にシアトルに行けておらず、処分できずに残った物は貸倉庫にまだ放り込んでありますし、事務所もそのままです。コロナ問題が落ち着いたら残務整理をして、日本に落ち着きたい考えです。

日課となった庭の手入れ自家菜園での野菜の収穫が待ち遠しい

終の棲家は、鎌倉にしました。生まれは茨城県、小学生からは東京都ですが、社会に出てからは引っ越しが多く、シアトルでも14回は引っ越しています。日本帰国後の生活もせっかくなら新しい街でという思いがあり、いろいろ探していました。たまたま友人から招待された鎌倉が気に入り、1年後の再訪で地元の不動産屋さんと物件を1日見て回った後、比較的新しく開発された鎌倉ハイランドの家に決定。リタイアした方や海外経験者も多いコミュニティーで、すんなりと溶け込むことができました。

日本に帰ると家族、親戚、幼なじみとの交流が頻繁にあり、家族中心だったアメリカ生活に慣れた身には、近所付き合いを含め多少煩わしさを感じることも事実です。もうひとつ、日本とアメリカで大きく異なるのは、常に年齢を意識させられること。アメリカではどんな年代の人とも違和感なく話していたのに、日本ではどこに行っても年齢を気にされがちで、外出すると時に若い人の視線が感じられる場面が多々。とはいえ、四季それぞれに旬の味がそろう日本での食生活は格別です。言葉の面でも、40年間アメリカにいたとはいえ医療関係の英語などは特に難しく、日本でそのような心配をしなくて済むのはありがたいことです。アメリカ社会は好き勝手に皆動いていて、まとまりがないように感じていたのですが、大きな社会の流れ全体では不思議なくらい整然としています。それに対して、日本の社会はきめ細かい配慮があるのは良いのですが、大きな変革には社会がなかなかついていけないような気がします。それはコロナ禍での対応にも表れているように思いました。

鎌倉でもシアトルと変わらずにコミュニティーとのつながりを大切にしている

シアトルでは日本の顧客相手に昼夜なくがむしゃらに働き、60歳を過ぎた2000年以降はワシントン州日米協会やシアトル日系人会を通じてのボランティア活動にも時間を費やしてきました。自分らしく落ち着いた生活が送れるようになったのはここ数年です。陶芸を楽しんでいた妻のように、今となってはシアトルでもっと趣味の幅を広げておけば良かったという思いも正直あります。シアトルの友人たちが山野を駆けめぐる様子などをSNSで見るにつけ、うらやましく感じています。日本に帰国して1年半近く経ちますが、このコロナ下で家からほとんど出ることもなく、公共交通機関は必要不可欠の用事で2、3回利用しただけで、外食も数える程度。1日の大半は庭で花木や野菜の世話をしています。2008年にシアトルで設立した貿易会社は、日本からの断熱塗料の輸出と西アフリカへの工場進出が進行中。仕事もまだ、ほどほどに頑張っています。日本でもボランティア活動は続けており、今年から自治会役員として環境担当になりました。シアトルでのボランティア活動で知り合った日本人、日系人、非日系人との交流は自分にとって大変良い勉強となり、大いなる人的資産と考えています。日本で少しでも社会の役に立てれば良いなと思いながら、鎌倉での日々を過ごしています。