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被災地からの声〜あれから10年、東日本大震災

10年もの月日が経った今でも、あの日に感じた恐怖は多くの人にとって心の傷となっています。震災で起こったことは、これから先も忘れてはいけないこと。被害の大きかった地域ついて、現地の話を聞くことができました。

形県米沢市で震災を体験した私は当時、中学生でした。発表された米沢の震度は5強。震災による停電でテレビが見られなくなり、情報収集が困難になりました。食糧難に見舞われるのを防ぐため、多くの人が水や食べ物の買いだめに走り、ガソリンスタンドには長蛇の列ができました。隣の福島県よりは被害の規模が小さかったため、福島から米沢に避難してきた人も少なくありません。当時、空き家が多かった米沢市は雇用促進住宅を開放。福島から避難してきた人が入居しましたが、あっという間に埋まってしまいました。避難することができた人は、震災後の情報収集に敏感に動いていた人たちだと感じます。入居できなかった人々のために、米沢市では体育館などの施設も開放され、500人以上もの避難者で満杯になりました。満足に風呂にも入れないままの避難生活でした。それでも、米沢市の必死のボランティアによって救われた命の重みは計り知れません。(Hさん)


は千葉県で幼児教室の講師として働いていました。ちょうど教室が始まる時間に震災を体験。外に避難したかったけれど、揺れが大きくて立っていることも難しい状態でした。揺れが収まるのを待って、幼児はその場に残っていた保護者と帰宅。その点では不幸中の幸いと言えます。たまたま保護者がいた時間だったので生徒の安全確保がかないましたが、もしひとりだったらと考えると恐ろしい。パニック状態になっていたかもしれません。教室にいた子どもたちは、まだ地震が何かすら理解できていないので、泣きわめくこともなく固まっていました。震度5強が観測された千葉県は埋立地が多いため、液状化現象で大きな被害を受けました。自分の車で帰宅する途中、コンクリートの地面がぱっくりと割れ、そこから泥水が吹き出し、建物自体が土の中に沈み込んで建物が傾くといった被害があちらこちらで見られました。普段なら15分で着く距離を1時間かけて帰宅しました。東北沿岸部に比べれば、千葉市の被害は少ないほうですが、初めての体験だったので、どうしたら良いものかと焦りました。目の前の子どもたちを守る一心だったのに加え、家族、友人、家のことが不安で、恐怖に押しつぶされそうになっていました。改めて、自分の身は自分で守らなければと実感した出来事でもありました。(Kさん)


災から2年後の2013年夏、以前住んでいた宮城県仙台市に行き、津波被害の大きかった同市内の荒浜地区を訪ねました。仙台の中心部は以前と変わらない街の風景と人の往来があり、本当にここが世界中のニュースになった被災地かと思わせるほどの復興ぶりでした。

仙台市荒浜地区各所で見られた残土の山下方にはがれきも集められていた2013年7月9日撮影

でも、そこから車で30分ほどの海岸に続く道は、かつて鬱蒼と茂っていた緑が消えてすっかり更地になっており、炎天下にもかかわらず、ただ海を見つめて座っている人々の姿が防潮堤の上に点々と続いていました。復興のスピードに人の心が追い付けないでいる、そんな印象を受けました。被災した友人が「震災を経験して、未来のことよりも、良くも悪くも今この瞬間が大事と考えるようになった」という言葉が今も忘れられません。(泉子さん)


は岩手県盛岡市出身です。震災当時は中学2年生でした。父方の実家が岩手県沿岸にある釜石市で、ひとりで暮らす祖母がいました。地震発生後から電話もつながらない状態だったので、祖母の安否を確認できずに心配していました。数日後、私は父とふたりで祖母の元へ駆け付け、無事を確認することができましたが、その姿を見るまではとても不安だったことを今でも覚えています。あれから10年経ち、私はLINE株式会社に入社して、企画を担当しています。LINEは震災をきっかけに、3カ月後の2011年6月に誕生したコミュニケーションアプリです。災害時や緊急時でも大切な人とすぐに連絡が取れることを目指して作られました。私もLINEの防災関連機能の開発に積極的に関わっています。非常時の安否確認、避難情報収集に役立てられるよう、一企画者として貢献していきたいと思っています。(鎌田賢祐さん)