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私たちの身直で感じる日系アメリカ人の歴史〜特別レポート

私たちの身直で感じる
日系アメリカ人の歴史

19世紀末から20世紀初頭にかけて日本からの移民が増え、シアトル周辺各地でコミュニティーを形成していました。日本人にあまり知られていない過去の出来事を振り返ります。

取材・文:白木満海

ワシントン州に移民した多くの日本人は農業、漁業、鉄道、鉱山などの主要な産業の働き手となり、地域の発展に貢献。しかし、第二次世界大戦に突入し、日米開戦に伴い日本人は差別され、やがて大統領令により強制収容が行われた。

そんな苦しい過去を経て、戦後は日本とアメリカの関係が改善され、両国間の交流が進んだ。日本食レストランや日本文化に親しめるイベントもすっかり浸透し、そこにはたくさんのアメリカ人の姿が見られる。

太平洋戦争の終結から78年経つが、私たちが平和への意識を持ち続けるためにできることは何だろうか。シアトル周辺には現在に至るまでの日系史を学べる場所がいくつかある。そのうち3つのエリアに絞り、日系人の忘れられた物語や知られざる歴史の一端を取り上げたい。

二度とないようにと刻まれた石碑が設置されているジャパニーズアメリカンエクスクルージョンメモリアル

日系人の強制収容はここから始まった
ベインブリッジ島

シアトルからフェリーで約 30分、気軽に行ける観光地として人気のベインブリッジ島。ここは戦前、日本人の主な移民先となった場所のひとつだ。第一次世界大戦前、島では日本ほか、スカンジナビア、南ヨーロッパ、ハワイ、中国などからの労働者が木材工場で働いていた。初めての日本人島民は1880 年代から住み着いたとされる。当初、日本からの移民は男性ばかりだったが、彼らは仕事が安定すると家族を呼び寄せ、50 世帯以上が島に暮らすようになった。

 

 

強制収容所で少女が感じていた思いとは

中にはイチゴ栽培を始める日本人もいた。島最大の産業にまでイチゴ栽培を発展させた1 世たちだ。島民からは誇りに思われていたそうである。それが、第二次世界大戦が始まると状況は一変。農作業に使う道具などは没収され、農園所有者の多くが連行された。ついに1942 年 3月30日の朝、ベインブリッジ島民227人が強制収容へと送り出される。

以降、西海岸から強制収容となった日本人、日系人は12 万人を超える。その3 分の2がアメリカ市民だ。ほとんどは終戦後にようやく解放され、西海岸に戻ることができた。ベインブリッジ島の歴史博物館では、このような強制収容に関する歴史を豊富な展示を通して学べる。また、そこから車で約10分の場所に建設されたジャパニーズ・アメリカン・エクスクルージョン・メモリアルからは、当時の日系人たちの思い、彼らが築き上げてきた生活が見て取れる。アートワークも見ごたえがあり、戦争と平和について改めて考えさせられる。ベインブリッジ島を訪れた際は、ぜひ足を運んでみて欲しい。

Bainbridge Island Historical Museum
215EricksenAve.NE.,BainbridgeIsland,WA98110
開館時間:10am~4pm 定休:月火 料金:無料
☎︎206-842-2773
https://bainbridgehistory.org

Bainbridge Island Japanese American Exclusion Memorial(PritchardPark内)
4192EagleHarborDr.NE.,BainbridgeIsland,WA98110
☎︎360-386-2114
http://bijaema.org



米国鉄道の労働力となった出稼ぎ日本人工夫たち
スノコルミー

スノコルミーでレールを敷く日本人鉄道工夫たち1930年 Snoqualmie Valley Historical MuseumPO0401357

絶景の滝で有名なスノコルミー。過去には鉄道建設に従事する日本人労働者たちがいた。日本に仕送りをするため故郷を離れたが、長く働くうち定住するようになる。19世紀後半から始まったグレート・ノーザン鉄道事業には、ワシントン州カスケード区域だけで800人近くの労働者が雇用され、その多くは日系移民だった。労働環境は厳しく、1日10時間働いて1ドルがやっと。有蓋車を寝所としたと話す人もいる。

山間部の線路の維持は困難を極めた。冬の間は雪かきをして列車を動かし続けなければならない。1910年のウェリントン列車雪崩事故では日系移民も犠牲となった。そして​​第二次世界大戦中には、ほかの日系人と同じく、強制的に人里離れた収容施設に送られる。戦後、一部はスノコルミーに戻ったが、差別や偏見は残ったままだったという。

今ではたくさんのアジア人が住み、観光地化したスノコルミーで、そのような歴史的背景に触れる機会は少なくなっている。同地にあるノースウエスト鉄道博物館やスノコルミー・バレー歴史博物館では、苦労を重ねた彼らの日常を目の当たりにできる。

Northwest Railway Museum, Snoqualmie Depot38625SE.KingSt.,Snoqualmie,WA98065
開館時間:10am~5pm
料金:無料
☎425-888-3030
www.trainmuseum.org

Snoqualmie Valley Historical Museum
320BendigoBlvd.S.,NorthBend,WA98045
開館時間:1pm~5pm 定休:水~金 ※11~3月は月火のみ開館
料金:無料
☎︎425-888-3200
https://snoqualmievalleymuseum.org

 



日系移民の開拓した土地が農園からIT都市へ
ベルビュー

活気に満ちたモダンな街、ベルビュー。シアトルに住む私たち日本人にとってなじみが深い。アジア系人口が約4割を占め、日本人は3,500人に上る。

メデイナ近くにある苗床にて
©Wing Luke MuseumObject ID 2007.036.015
イチゴ農園で働く人々。ほとんどが家族経営だった
©Wing Luke MuseumObject ID: 2000.015.080

戦前、ベルビューの経済は農業を中心に回っていた。辺り一面が果樹園や農園。そんなベルビューへと変化させたのが、日系移民たちだ。特にイチゴ栽培が成功し、日本から家族や知り合いを次々に呼び寄せた1世たちは、農業用の土地を購入して野菜やフルーツの栽培を拡大。大規模な農場経営は日系社会を潤した。当時、約300人の日系人が住んでいたとされる。1925年からは毎年、ストロベリー・フェスティバルが催され、近隣から大勢の参加者が集まり、イチゴのショートケーキなどを楽しんだ。

そんな伝統もにぎわいも、日系人が強制収容所に送られることで一切が途絶えた。終戦からしばらくして家族と合流できた者もいたものの、土地はなくなり、家は荒れ果てていた。自分たちの土地と生活を取り戻すのは容易ではなかった。苦難を乗り越え、新たな日系社会が築かれた今、ベルビューは多様性と豊かな文化を持つコミュニティーとして成長している。

ベルビュー含め、シアトル界隈の日系史は、インターナショナル・ディストリクトのウィング・ルーク博物館が詳しい。シアトルにおけるアジア系コミュニティーの歴史を伝える常設展をチェックしてみよう。

Wing Luke Museum
719S.KingSt.,Seattle,WA98104
開館時間:10am~5pm 定休:火
料金:一般$17、62歳以上$15、13~18歳$12.50、5~12歳$10、4歳以下無料☎︎206-623-5124
www.wingluke.org

ニュージーランドの高校とアメリカの大学を卒業。趣味はドラム、バスケットボール、絵。一度決めたことはどんな困難があってもくじけないで最後までやり通す。夢はシアトルでおにぎり屋さんを開くこと。