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ブルース・ハレルさん〜 シアトル市長選候補・元シアトル市議

シアトル市長選に立候補し、8月3日の予備選を勝ち抜き、11月2日(火)に行われる本選でロレーナ・ゴンザレス現市議会議長と対決するブルース・ハレルさん。当選すると、アフリカ系としては2人目、アジア系としては初のシアトル市長が誕生します。人生の大半をシアトルで過ごし、弁護士およびシアトル市議会議員として活躍してきたブルースさんは、「シアトルに育ててもらった」と自認しています。自身のルーツや幼少期の思い出と共に、市政への意気込みと抱負を語ってもらいました。

取材・原文:イレーン・イコマ・コー
翻訳:シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供

※本記事は『北米報知』7月9日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したものです。

ブルース・ハレル(Bruce Harrell)■シアトル市長選候補。弁護士。2007年から2019年までシアトル市議。地元のガーフィールド高校、ワシントン大学、同法科大学院卒業。アフリカ系、日系のルーツを持つアメリカ人。シアトル市議会議長を務めていた2016年には外務省の在米日系人リーダー招へいプログラムにより初めて日本を訪れ、アイリーン・ヒラノ・イノウエ米日カウンシル会長(当時)らと共に安倍晋三首相(当時)を表敬訪問した。妻のジョアンヌさんとの間に3人の子どもがいる。 info@bruceforseattle.com www.bruceforseattle.com @bruceforseattle

日系の母とアフリカ系の父の間に生まれて

ブルース・ハレルさんの祖母、タメノ・ハブ・コバタさんは大阪生まれ。夫のテイジ・ハブさんと1900年代初頭に日本からシアトルへ渡り、6人の子ども(ジャックさん、キミさん、ジョンさん、ユキさん、カコさん、マリーさん)に恵まれる。

新婚当初のブルースさんの両親1953年頃

しかし、テイジさんは、若くして髄膜炎で命を落とす。死の床で、残される家族の世話を親友のジョン・コバタさんに託した。遺言に従って一家の面倒を献身的に見たジョンさんは、やがて未亡人だったタメノさんと入籍。そのふたりの間で5番目の末っ子として生まれたのが、ブルースさんの母となるローズさんだ。同じ父を持つ兄、姉にはジョージさん、ルイーズさん、フランクさん、ジョージさんがいる(いちばん上の兄、ジョージさんは早くに亡くなった)。一家は日本町に引っ越して、小さな食料品店を営んでいた。後に店は地元最大の花屋、チェリー・ランド・フローリストとして成功を収める。ローズという名前も、ジョンさんが花にちなんで付けたものだ。第二次世界大戦が始まると、ローズさんを含め親戚一同、アイダホ州のミニドカ収容所に送られた。戦中、アメリカに住む日系人は敵性外国人とみなされ、アメリカ国籍を持つ2世を含め、自宅のある地域から強制退去させられ、土地や財産を失った。ローズさんの家族もそれは同じだった。

結婚してシンボ姓となった次女のカコさんは、戦争が終わると夫婦で同じS. Jackson St.沿いに花屋を開いた。ガーランド・フローリストと聞けば、古くからシアトルに住む人なら、思い当たるかもしれない。また、長男のジャックさんは自動車修理工場を始め、息子が引き継いだ。現在もアート・アンド・ゴードン・ハブとして営業中だ。収容所からシアトルに戻ったローズさんはガーフィールド高校に通い、そこでブルースさんの父親となるクレイトン・ハレルさんと出会う。ハレル家はもともとルイジアナ州ニューオーリンズの出身だが、シアトルに居を移していた。クレイトンさんの父、ウィリアムさんは大工として生計を立て、3人の息子のうち2人をワシントン大学に通わせた。クレイトンさんの母のリリアンさんは、ファーストヒルにあったカブリーニ病院の新生児室に看護師として勤務していた。

幼少期に父のクレイトンさん母のローズさん兄のクレイトンジュニアさんと1963年頃

ブルースさんの両親は意外な人物と高校の同級生だった。音楽界の大御所、クインシー・ジョーンズ氏だ。父、クレイトンさんはバンピー・ブラックウェルズ・バンドとして一緒にバンド活動を行い、シアトル界隈ではかなり名の知れた存在であったという。クレイトンさんとローズさんは1951年にガーフィールド高校を卒業すると、その2年後に結婚する。日系とアフリカ系という人種を超えた結婚を選択した若いふたりは、常に世間から好奇の視線を向けられた。当時のことをブルースさんはこう話す。「家族でダウンタウンを歩くと、人々は私の両親に目をやり、そして兄と私をじろじろと見るのです。まるで別の惑星から来たかのように」。それでもブルースさんの両親は互いを思いやる気持ちを決して失わず、文字通り「死がふたりを分かつまで」、50年にわたって添い遂げた。

葛藤を抱えた青年時代

日系とアフリカ系の血が流れるブルースさんは、幼い頃から「自分はどの人種グループに属するのだろうか」と自問していたという。書類提出の際など人種のチェック欄があると2つをマークしなければならず、人種について討論する場では自分の意見を発表するのをためらった。自分の境遇は特殊だと自覚していたからだ。

母ローズさんの両親が日本町で営んでいたチェリーランドフローリストが最盛期を迎えていた1940年頃の様子ローズさんの姉ルイーズサクマさんは戦後にセントラルディストリクトでチェリーランド2号店を開きその花屋を長年経営した

しかし、ワシントン大学に入ると環境は一変。自分と同じように異なる人種をルーツに持つ人たちとの出会いが急増したのだ。ほどなくして友情を築くのに人種は関係ないとブルースさんは気付く。友人たちは誰しも、人種に関係なくブルースさんの人柄を慕い、尊重してくれた。「人の活動の原動力となるのは『愛』なのだと気付きました。私はいつも愛に囲まれていました。誰かに心ないことを言われると、これまでの人生で私を支え、元気付けてくれた家族や友人たちのことを思い出します。彼らとの出会いは、今でも私の心の糧です。そこに人種は関係ありません」

ガーフィールド高校卒業式にて祖母のリリアンハレルさんと共に1976年撮影

ブルースさんは子どもの頃、ひどいあだ名で呼ばれ、よく喧嘩もしたと言う。そんなブルースさんの心のよりどころは両親からの愛情だった。「兄と私に惜しみなく愛情を注ぎ、自信を与え、混血に向けられる無知や偏見に立ち向かう強い心を育ててくれた。現在もアジア系住民に対するヘイトクライムがあとを絶たず、アジア系、アフリカ系、先住民、有色人種(BIPOC)は不当な暴力の恐怖にさらされています。私の最後の砦となるのは愛です。それは両親が亡くなった今でも同じです」

教育熱心な母親の影響

母、ローズさんは1933年にシアトルで生まれた。セントラル・ディストリクトのベイリー・ガザート小学校、ワシントン中学校、そしてガーフィールド高校と進み、ワシントン大学で会計学のクラスをいくつか履修した。「母親であり、職業人でもありました」とブルースさんは振り返る。ローズさんはイースト・マディソンYMCAで秘書として働いた後、現在でも発行されているアフリカ系アメリカ人向けの地元紙『ザ・ファクト』編集部を経て、アフリカ系の人権活動家でシアトル市全体の予算管理や市営公園の運営などを任されていたウォルター・ハンドリー氏の下で「シアトル・モデル・シティー」事業を担当するビジネス・マネジャーを務めた。その後はシアトル公共図書館で財務部長として長年働いた。

2012年に母のローズさんと父のクレイトンさんは2003年にがんで他界ローズさんは2014年心不全により亡くなっている

ブルースさんの揺るぎない自信、身体能力の高さ、強靭な精神力は母親譲りだ。「母は真のスーパーウーマン。学ぶこと、物事に興味を持つこと、読書の大切さも母から教わりました。子どもの頃、夕食を終えて食器を手洗いする母に本を朗読するのが私の役目で、毎晩、毎晩、何年も続けました。どれだけ多くの本を読んだことでしょう」

当時、ローズさんは教会の日曜学校で子どもたちを教えており、PTA活動にも精力的に関わっていたが、ブルースさんの出場する試合には欠かさず応援に駆け付けた。ある日、こんな出来事があった。高校生だったブルースさんは、レスリングのトーナメント試合に出場。1回戦に勝ったブルースさんを見届けて、ローズさんは車に戻った。ブルースさんを待つこと4時間。その後交わされた会話が、いかにもおおらかなローズさんらしい。

「ずいぶん時間がかかったわね」

「えっ。試合が終わってすぐに飛んできたよ」

「でも試合が終わったのは4時間前じゃない」

「母さんったら。僕はあの後、もう2試合あったんだよ。トーナメント戦だもの。両方とも勝ったのに、見ていなかったの?」

「見ていなかったわ。本を読んでいたの」

ふたりはハンバーガー屋に立ち寄り、笑いながらバーガーを頬張ったそうだ。「母は私の元気の源でした」。ブルースさんにとって、忘れ難いエピソードだ。

政治家の道へ

2007年、ブルースさんは弁護士から政治家へ転身する。「世の中に恩返しをしたい」と思ったことがきっかけだ。長年、弁護士として活躍したブルースさんは、仕事を通じて企業、非営利団体などあらゆる分野で働く人たちと交流を深めた。その経験を市政に生かせると考えたのだ。

12年に及ぶ議員生活の中で、ブルースさんが特に誇りに思う政策がいくつかある。2013年、犯罪歴のチェック欄を廃止するバン・ザ・ボックス(Ban the Box)法が可決された。これは、職場の安全を損なうことなく、軽犯罪などの逮捕歴がある人が職を探しやすくすることを目指した雇用支援法で、ブルースさんが起草した。逮捕歴のある人は、シアトル市だけでも12万人以上、キング郡では42万人を超す。この法律が施行される前は、たとえ少量の薬物の所持や使用といった軽微な犯罪でも、前科があるというだけで仕事に就くことは非常に難しかった。そのような人に再起の道を開いたことになる。

ブルースハレルさん一家妻子どもたちと孫に囲まれて2015年撮影

2010年には、教育分野でのテクノロジー格差解消に向け、シアトル学区の低所得者世帯の生徒約2万人に月10ドル以下での高速インターネット・アクセスを提供。その功績が認められ、ブルースさんは全米電気通信諮問委員会(NATOA)からブロードバンド・ビジョナリー・オブ・ザ・イヤー賞を授与された。さらにブルースさんはシアトル市とサウス・シアトル・カレッジの提携を実現させ、公立高校を卒業した学生が無料で同カレッジに通える制度を整えた。「13年生の約束(13th Year Promise)」と呼ばれるこの取り組みは、ジェニー・ダーカン現市長にも引き継がれ、充当額は500万ドルまで増加。対象となるカレッジも市全域に拡大された。

もうひとつ、ブルースさんが関わった大事な法律がある。2015年に施行された最低賃金を時給15ドルに定めた法律だ。当時、ブルースさんはシアトル市が設置した所得格差是正諮問委員会の主要メンバーだった。この法案を可決するために、雇用者の代表グループ、自営業者や企業経営者、非営利団体、人権団体、飲食・サービス業界、製造業界で働く人々など大勢の協力を仰いだ。

ブルースさんの関心は安全な街づくりにも及ぶ。「私は治安維持に本気で取り組みました。公安委員長を務め、警察官を増員するために毎年予算を増額し、2016年末にはシアトル史上最多となる1,384人の警察官が任命されました」。この増員が警察官による不祥事や不当な暴力の増加につながらないように、2017年には「バイアスフリー」取締法を単独で提出し、2019年に可決された。この法律により、人種差別や偏見による取り締まりを受けた個人が裁判所に申し立てられるようになった。また、警察官が職務質問したり、一時的に身柄を拘束したりする割合が人種間で不当に偏っていないかを検証するために、シアトル市は詳細なデータ収集を義務付けられた。警察官は「バイアスフリー」に関する研修を受けることが必須となった。

市長選に再挑戦

ブルースさんは過去にも市長選に立候補している。今回、再び挑戦する理由は何だろうか。「私はシアトルで夢をかなえ、家庭を持ちました。恩義を感じているシアトルが現在、苦境にあえいでいる。その現状を打開したいのです。自分の経験や人脈など、私という人間を作り上げている全てを市政に注いで、街を活性化、再生させるために奉仕するつもりです」

警官による拘束中にジョージフロイドさんが死亡した事件での人種差別に抗議するBLMブラックライブズマター運動に参加2020年撮影

ブルースさんは以下の重点政策を掲げる。人種の平等と社会正義、小規模ビジネス支援を中心とした経済活性化、公共の安全、ホームレス問題への対応だ。「日系とアフリカ系のルーツを持ち、長年シアトルで暮らし、実績を築いてきました。今、シアトルが抱える多くの問題を解決に導く資質が私には備わっていると信じています」

ブルースさんは次世代を担う若い人たちへもメッセージを送る。「キャリアを築くうえで助けとなるものは、人脈と知識です。幸い、これらは自分でコントロールできます。志に共感できるのであれば、多くの人を助けましょう。それは必ず報われます。そして世の中の傾向を知るために新聞や本を読み、ボランティアでも良いので率先して問題解決に取り組んでください。最後に、最も重要なのは、常に前向きな姿勢でいることです。人は最終的に、態度で評価されます。全ては自分の選択にかかっています」