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小野田ケンさん/ユナイテッド航空パイロット

日本出身ながら、アメリカの航空会社でパイロットとして空を舞い上がる小野田ケンさん。家族や周りの支えに感謝しながらインタビューに応える姿が印象的ですが、ここまでの道のりは決して平坦ではなかったようです。これまでの苦労や、これからの夢を熱く語ってもらいました。

取材・文:加藤 瞳 写真:本人提供

ユナイテッド航空のウイング授与式にて妻のエレンさんと妻両親教官友人先輩後輩たくさんの恩人に支えられ夢がかなったのを心から実感した日でした
小野田ケン1991年生まれ。神奈川県茅ヶ崎市出身。日本人の父、インドネシアのバリ人の母を持つ。拓殖大学工学部国際エンジニアコース・パイロット養成プログラム一期生。ネブラスカ州での2年間の航空留学でコマーシャル・パイロットのライセンスを取得し、卒業後はオレゴン州の小野アビエーションにて飛行教官、チーフ・フライト・インストラクター、スクール・アドバイザーとして4年間勤務。インフィナイト・エアロ・アカデミー(IAA)のチーフ・フライト・インストラクターを経て2018年、ホライゾン航空入社。2021年に機長へ昇格した後、2022年よりユナイテッド航空パイロットに。2023年、異動に伴いワシントン州からカリフォルニア州に住居を移したばかり。
パイロットになる決意
「母の故郷のバリ島を訪ねて飛行機に乗るたび、パイロットのプロフェッショナルな雰囲気にほれぼれしていました」。オーストラリアの航空会社に勤務する日本人の父と、インドネシアのバリ人の母の間に生まれたケンさんは、物心がつく頃にはすでにパイロットという職業に憧れをつのらせていた。茅ヶ崎育ちで、家の近くには旅客機が頻繁に飛ぶ航路や、海上自衛隊と米海軍の厚木航空基地があった。日々、上空を行き交うジェット機を誰よりも早く見つけては、「コックピットから見える景色はどんなものなんだろう」、「乱気流で機体が揺れる間、パイロットは何をしてるんだろう」と、いろんな想像を膨らませた。
とにかく元気で動き回る子どもだった飛行機離陸の加速感が大好きで両腕を伸ばして全速力で走りジャンプ とまねをしていたそう

母リアニさんの若かりし頃両親の出会いはなんとバリ島のコーヒーショップでのひと目ぼれだとかカタカナ表記のケンはインドネシア語のSing ken kenシン ケン ケン大丈夫なんとかなるさの意から名付けられた
父の豊さん4歳離れた姉の有莉さんとケンさんが好奇心の塊のような人と形容する豊さんは普段厳しくてもピンチの時には必ず助けてくれた
祖父の家で見つけたホームビデオのひとコマ中央でパイロット帽をかぶるのが幼き日のケンさん

しかし、そのままパイロットの道へと突き進んだわけではなかった。「実は中3の終わりから、ちょっとやんちゃしてしまって……。高校を卒業したら当時バイトしていた塗装屋で雇ってもらおう、なんて思っていたんです」。オールバックの髪を染め、ワークマンで買ったニッカポッカの出で立ちで、仲間と一緒に原付を乗り回す、やんちゃ時代を送ったと言う。そんな高2の夏、祖父が亡くなった。「姉とふたりで祖父の遺品を整理していたら、古いホームビデオが出てきたんです。幼稚園の催しでパイロットのコスチュームを着て『パイロットになりたいです!』と大声で叫ぶ自分を見て、俺、何やってんだ……って。それで目が覚めました」
そこから一念発起! 幼い頃に思い描いた夢を実現できる道を探し始めるが、そう甘くはなかった。日本でパイロットになる場合、その進路はある程度決まっている。航空大学校へ入学するか、大学卒業後に航空会社に入社して自社養成コースを目指すか、メインはその2択。「結局、どちらもエリートなんですよ。高2まで遊んでいた自分が行けるわけないって感じで。あとは高いお金を払って飛行学校に入り、免許を取るという方法もあるけれど、うちはそんなにお金持ちでもなく、やっぱり無理そうだと……」
ところが、当時はちょうど、いくつかの大学がパイロット養成プログラムを開講し始めていた頃だった。ANAと提携する東海大学を筆頭に、法政大学理工学部の航空操縦学専修や、桜美林大学のフライト・オペレーション・コースなど、ちょっとしたブームに。だが当然のことながら、それらのプログラムでは一定の英語力が合格基準として定められていた。「その頃は、TOEFLって何?っていうレベルで。浪人も視野に入れ始めた矢先、拓殖大学工学部がパイロット養成プログラムを新たに導入することを知ったんです」
一期生の募集で、まだ英語面接以外の語学能力要件がなかった。それまで遊んでばかりいた息子が親に頭を下げ、塾の費用を捻出してもらった。この話をするときは、いつも涙があふれてしまうと明かすケンさん。「あんなにどうしようもなかった息子を信じてくれた。母は茅ヶ崎の日本料理店でパート勤めをしていたのですが、そのお金で塾に通わせてもらったんです。だから必死に勉強しました」。結果、特別奨学生として合格。4年間の授業料が免除されることとなった。「さんざん心配をかけた自分を見捨てずにいてくれた両親には本当に感謝しています。いまだに母からは、『良かったねぇ、あの頃は大変だったねぇ』なんて言われますけれど(苦笑)」
アメリカへ留学後、航空教官を経て航空会社に就職
晴れて拓殖大学のパイロット養成プログラムに入学したが、大変なのはここからだった。最初の1年半は実家の茅ヶ崎から八王子の高尾キャンパスまで片道3時間かけて通った。電車内では工学部の必修科目はもちろん、提携大学であるネブラスカ州立大学カーニー校に航空留学するため、英語の勉強にも励む毎日。そして大学2年目の夏、ネブラスカへ渡ると、待ちに待った飛行訓練が始まった。
「いざとなると、やっぱり緊張しました。この仕事が自分に合っていなかったらどうしようとか、乗り物酔いしちゃうかもとか……。でも、初めて自分でセスナ機を操縦した瞬間、『これは楽しい!』とすぐに吹っ切れました」。教授や教官に恵まれ、座学講義も面白くて仕方がなかったそう。それまで勉強は好きではなかったことがうそのように、すっかり航空学の奥深さにのめり込み、時間ができると図書館へ直行した。「あまり興味のない科目さえ、飛ぶためならと思うと全く苦になりませんでした」と振り返る。空港から教室、図書館、寮をひたすら行き来するだけの日々を2年間延々と繰り返した。
慣れないアメリカでの生活や言葉に苦労はなかったのだろうか。「大学のあるカーニーは、オマハから車で3時間くらいの田舎町。留学して最初のクリスマスに、さらにど田舎にあるルームメートの実家に連れて行ってもらったんです。アジア人なんていない町で、僕がレストランのドアを開けた瞬間、みんな一斉に振り返り、宇宙人を見ているような目で『何あれ!』って。衝撃的でしたね(笑)」。英語は日本式の勉強をしていたこともあり、最初は全くしゃべることができなかった。それでも、アメリカ人の教官の下、免許を取らなければいけない。現地での猛勉強の甲斐あって英語力も伸び、留学2年目の夏、プログラムの最終目標であったコマーシャル・パイロット(事業用操縦士)ライセンスを取得。日本へ帰国した。
しかし、ここでまた大きな壁が立ちはだかる。この事業用操縦士ライセンスは、250時間の飛行経験と種々の試験をクリアし、アメリカ国内で働けるというもの。ただし、飛行学校の教官や遊覧飛行パイロット、農薬散布機などの操縦に限られる。旅客機を操縦するには、さらに1,500時間の飛行経験を満たし、ATP(定期運送用操縦士)のライセンスを取得しなければならない。すなわち、ケンさんが取得したライセンスだけで航空会社に就職することはできないのだ。「しかも、海外ライセンスだと、日本で働こうと思ったら日本の事業用ライセンスに書き換えないといけない。書き換えのための訓練には、最初から新しく取り直すのと同じくらいのお金と労力がかかります。飛行経験を稼ぐために、アフリカのブッシュパイロット(空港のない僻地に物資を届ける)になろうかとも考えました」
運良く、オレゴン州にある日本人向け飛行学校の飛行教官として採用され、ビザ・サポートも受けられた。「その学校には、グリーンカードのスポンサーにもなってもらいました。休日でも悪天候でも、とにかく飛んで飛んで……人一倍働きましたね。もちろん、安全第一で」。ネブラスカ時代に自分が開眼させられた教授のような航空教官になりたい、という思いもあった。アメリカでは、1,500時間の飛行経験を第一の目的とし、教えることに情熱を持たない航空教官も少なくないようだ。そんな中、真摯に取り組むケンさんは人気教官に。自身がホライゾン航空入社を決め、訓練を経てATPライセンスを取得する頃には飛行経験が4,000時間を超え、110以上の実地試験に生徒を送り出し、92%の合格率を誇った。「今、日本のスカイマーク社でボーイング737を飛ばしている副操縦士は、ほとんど僕の教え子です(笑)。実はホライゾンに入ってからも、休日には教官の仕事を続けていたんです」
航空教官として実績を積みながら、旅客パイロットへとケンさんを導いたものは何だったのだろう。「新しい挑戦をしてみたかったんです。航空会社に勤めるエアライン・パイロットは、規模もスタイルも全く違う飛行機に乗ります。向上心を持っていれば、常に何かしら新しいことができるのがこの仕事の魅力。ひとつとして同じフライトはないですし、操縦士から機長、小さな飛行機の次は大きな飛行機へと、可能性が広がります」。そして、教えることは自分も学ぶことであると、教官を続けた。パイロットとして成長し続けたいという強い志があふれる。
人と人をつなぐ旅客パイロットとして
機長を務める飛行機で迎えた娘の初フライト不在が多くなるパイロットの仕事は家族の理解が不可欠だ出発の機内アナウンスで万感の思いを込めて家族へのメッセージを伝えたのに妻はそれを聞き逃したんですよ苦笑
ホライゾン航空パイロットになり、最初に乗ったのはDHC8-Q400型というプロペラ機。シアトル、ポートランドを起点に、北はカナダのバンクーバーから南はカリフォルニア州レディング、東はモンタナ州ボーズマンまでと、ノースウエストの空を中心に飛び回った。
ホライゾン航空への入社は大きな試練だったと、ケンさんは語る。「アメリカで働いていたものの、それまでの4年間は日本語の環境にずっといたため英語が上達していなかった。飛行知識に関しては自信がありましたが、チームと連携して仕事をこなすに当たってのコミュニケーションの部分、たとえば機内での出来事を客室乗務員からインターコムで報告を受け、無線で管制官とやり取りし、機長と判断を下す、そんなときの英語力が欠けていたんです。すごくショックでした」
もし医療的な緊急事態となった場合でも、「盲腸って英語で何? どう伝えるの?」という具合。落ち込むことも多々あった。しかし、そんなときは必ず誰かが支えてくれたと言う。「2016年に妻のエレンと出会ったのですが、彼女のサポートがなかったら訓練についていけなかったかもしれません」
ネブラスカでの航空留学時代初単独飛行を無事終えた後に担当教官のダリンジョリーさんと
ホライゾン航空時代の先輩で日本人初の女性エアラインパイロット岡村嘉子さんと彼女が乗り越えて来た壁は相当なもの仕事に真摯に向き合う姿勢を学びました

昨年、国際線を飛ぶユナイテッド航空への入社を果たした。さらに大きな挑戦だ。「初めて日本からネブラスカに向かった時の便が、サンフランシスコ行き、ユナイテッドのボーイング777型機でした。自分にとっては、人生で大切な第一歩を踏み出すためのフライト。その機長がすごくカッコ良く見えた。あの人みたいになりたいと思ったんです」。これこそ、ケンさんがパイロットであり続ける理由だ。
「今、1回のフライトにつき約150人の旅客を乗せて飛んでいます。そのひとりひとりにドラマがあり、目的地に行く理由があります。家族や親友に会う人、大事な仕事のミーティングがある人、大切な人を失いお別れに向かう人……。そんな人々のドラマの一部分を手助けできていると思うと、やりがいや喜びを感じます。アメリカと日本の架け橋になれたらカッコいいなあって、思うんですよね」。ケンさんは2003年公開の米映画「ラブ・アクチュアリー」の冒頭、空港の到着ロビーのシーンが大好きだと話す。「再会を喜んでハグしている人、涙している人。自分が担当するフライトの乗客の方が、そんな美しい再会をしている場面を見ると、仕事の有意義さを感じます。人と人をつなぐ仕事です」
最後に、今の子どもたちに伝えたいことを聞いた。「水平線って、自分が立っている地点から16キロくらい先にあるそうです。たとえばビーチに立っていて、そこから見える水平線の景色のところに、何があるんだろうって思い切って行ってみると、また次の16キロ先が見えてくる。もしビーチに座ったままでいたら、その32キロ先の景色は見ることはできなかったんです。その積み重ねで今の自分がある。僕みたいなのがパイロットなんて無理だと思った人もたくさんいたはずです。それでも信じてくれる人がいた。周りの大事な人たちに感謝し、勇気を持って最初の一歩を踏み出して欲しいですね」
訓練後ホライゾンでの初フライトに交際中だった妻のエレンさんも搭乗急きょ行き先が変更となるハプニングがあり緊張が止まらなかった仕事に集中させてなんて思っていましたがこの記念写真が残っていて良かったです
セスナ機を借りハワイのマウイ島上空を遊覧中エレンさんにプロポーズ
両親妻を乗せてオレゴン州上空を遊覧飛行中にパチリ父の豊さんに操縦指導したところ意外にも操縦センスが良くて驚く場面も
東京都出身。早稲田大学第一文学部卒。ニューヨーク市立大学シネマ&メディア・スタディーズ修士。2011年、元バリスタの経歴が縁でシアトルへ。北米報知社編集部員を経て、現在はフリーランスライターとして活動中。シアトルからフェリー圏内に在住。特技は編み物と社交ダンス。服と写真、コーヒー、本が好き。