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日系ビジネスがこぞってラジオ放送参入〜シアトル日本語ラジオ放送史 第3回

シアトル地域でラジオ放送がスタートしたのは1921年のこと。日系の定期放送は全米初となった1927年のカリフォルニア州オークランドに続き、シアトルでは1928年に開始されました。1930年の国勢調査によれば、当時の日系人口はワシントン州全体で1万7,087人、シアトル市内で8,134人。日系コミュニティーで親しまれたいくつかの番組を全4回にわたり紹介します。

第3回 日系ビジネスがこぞってラジオ放送参入

三輪堂

1931年1月時点でKFQW局では隔週木曜日に中村時計店の「日本音曲放送」(第2期)が放送中だったが、この番組のない週の同時間帯(午後7時半〜8時)にも日本音楽が流れていた。書籍、雑誌、文房具、写真機などを販売する三輪堂がスポンサーの番組である。これで木曜日は毎週、日本音楽がラジオで楽しめることになった。1930年にはすでに番組が開始されていたものと思われるが、同年の邦字紙が見つからず、いつ三輪堂の番組がスタートしたのかを特定することはできていない。

三輪堂相模屋広告

中村時計店の番組と同様に、筑前琵琶、落語、浪曲、長唄、小唄、童謡などのレコードを流すのが常であったが、生演奏も取り入れた。たとえば、シアトルを訪問した口笛の名手、アーネスト・ニッケルとシアトルの口笛界を代表する荒井よねの口笛二重奏による「荒城の月」と「墓詣」、初音会の中谷福子師匠の端唄「流しの枝」と長唄「多摩川」、あるいはアメリカ各地を演奏旅行していた薩摩琵琶(錦心流)の名手、山口法水の「川中島」など、多彩な内容の生演奏が放送された。中村時計店の「日本音曲放送」(第2期)終了に合わせて、1931年5月7日が最終放送になったものと考えられる。

三輪堂はその後に相模屋と合併して三輪堂相模屋商店となり、ビクター・コロムビア・ラジオ蓄音機やレコード特約の販売店となった。同店はソプラノ歌手の関屋敏子がシアトルを訪問したのをとらえ、単発番組として1931年10月9日にKJR局にて関屋の独唱放送を企画した。当夜のプログラムは 「浜唄」、「江戸子守唄」、「アイアイアイ」(スペイン語)、「夜の調べ」、「セビリアの理髪師」(イタリア語)などで、アナウンスは浅場金蔵が担当した。日本のレコードを取り扱っている同店では、関屋のレコードを5枚以上買うと肉筆サインを進呈するなど、宣伝にも余念がなかった。

古屋商店

シアトル日本町で最も成功した商人のひとりとされる古屋政次郎(山梨県出身)は、仕立て屋から始まり、日米の雑貨、食料品を扱う古屋商店を開業。タコマ、ポートランド、バンクーバーほか日本に支店を持つまでに至り、さらには金融業にも進出した。その古屋商店がスポンサーとなり、1931年4月29日の昭和天皇誕生日、午後8時からKXA局で天長節奉祝放送が行われた。

古屋商店番組広告

番組内容は日米の少年音楽隊による日米国歌斉唱、シアトル国語学校生徒唱歌隊の奉祝歌、山崎直道の奉祝の詞、田中仙八領事代理の講話、沖山栄繁(北米日本人会商業会議所会長)の万歳三唱で、北米日会書記や姉妹紙『北米報知』の前身となる『北米時事』記者を歴任した中島勝治(梧街)がアナウンスを担当した。

一時期はとても羽振りの良かった古屋商店であるが、大恐慌に伴う不況の影響を受けて金融業でつまずいたことから、同年10月に廃業に追い込まれた。したがって、同商店の日本語放送はこの年限りの単発で終わってしまった。

大北日報

1910年からシアトルで編集・発行されていた邦字紙の『大北日報』がラジオ放送に乗り出した。これは「ワシントン、アイダホ、ユタ、オレゴン、モンタナ各地に散在する多数愛読者ならびに、我が同胞平素のご愛顧に報いんため計画したもの」(大北日報1933年10月9日号より)で、広いサービスエリアを持つKJR局で都合3回にわたり放送された。

大北日報記事

第1回は1933年10月12日の午後7時45分から30分間放送。当日の番組はワンダー・ブレッド社および菊正宗の輸入元である高橋商会がスポンサーになり、テナー歌手の上出雅孝が出演するコンサートであった。上出は牧師としてハワイに滞在し、その後にテナー歌手、戦後には米国務省の嘱託通訳になった人物である。当日は「鉾をおさめて」を始めとする日本音楽を中心とした選曲が行われた。「荒城の月」を歌って欲しいとの電話もかかってきたが、時間が押していることもあり、リクエストに応えられなかったという。アナウンスは大北日報外交員の高橋源太郎が担当した。

大北日報記事

第2回は、1934年2月7日の午後8時から30分間放送された。この番組も高橋商会がスポンサーとなった。大北日報の狩野輝光(その後、北米時事入社)の挨拶に続き、木村憲司、斉藤竹粹、田中照治などシアトル在住の素人名人を集めて長唄、端唄、バイオリン独奏、越後獅子、三曲合奏の生演奏が流された。後日の大北日報で、各方面からの反響が大きかったことや、モンタナ州テレサのリスナーから感謝状が届いたことが報じられた。

第3回は1934年9月27日の午後7時45分から15分間、日本歌曲放送として行われた。第1回に続き、アナウンスは高橋が担当し、テナーの上出が再度登場した。上出は第1回放送直後にコンサートや勉強のために日本へ一時帰国し、その成果を発揮すべく、「歌を通じて今の日本を一般同胞に感じて貰ひたい」(大北日報1934年9月25日号より)として、「よよこせ 秋田の子守唄」など日本の曲を歌った。

大北日報記事

最終回では、日系2世のジェームス坂本が発行した英字紙『ジャパニーズ・アメリカン・クーリエ』によるラジオ番組と、その終了について取り上げる。

中学生の頃から外国の短波放送を受信する趣味を始める。ラジオ全般の歴史にも興味を持ち、近年は南北アメリカ大陸で放送されていた日系移民向けラジオ番組の歴史について調査している。北米大陸で戦前に行われていた番組を紹介する『日本時間(Japan Hour)』を2020年に自費出版(本コラムでは、同書よりシアトルに関連する内容を抜粋)。