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MBA取得への道

MBA取得への道

MBA取得を志したきっかけ

MBAとはMaster of Business Administrationの略で、日本語では「経営学修士」と言います。何か特別な響きのように感じられますが、要は経営学の大学院で取得できる学位のことです。医師や弁護士といった資格とは違うので、ひと口にMBAと言っても、全ての授業がオンラインでマイペースに履修できる学校もあれば、1学年に何百人もの学生がいて生き馬の目を抜くような競争を勝ち抜く必要のある学校もあり、どこの大学院でMBAを取得したのかによってその価値には雲泥の差があります。

私は夫の転勤に帯同して2017年にシアトルにやってきました。大学院への入学を志したのは、限られたアメリカ生活の中で何か財産になるものを持ちたかったのと、大好きだった仕事を泣く泣く辞めてきたこともあって、このアメリカでの数年間をただキャリアに穴を開けただけのようには見せたくないという負けん気根性もありました。何よりも、日本で仕事を辞めた頃はちょうど働き方改革が叫ばれ始めた時期で、組織の中で何となく通用してきたサービス残業やハラスメントといった諸問題がこれからの時代は許されなくなっていくのは明白だったために健全な組織運営について学びたいと考えたこと、そして年齢と経験を重ねるに伴って組織の中でひとつの歯車から全体を動かすエンジンとなるために、もっと大きな視点から経営について学びたいという思いから、自分でもびっくりの一念発起をしたのでした。

先に書いた通り、進学先にはさまざまな選択肢がありました。いろいろな観点から私の希望にピタリと合致したのが、このたび修了したワシントン大学ボセル校の2年制のパートタイム・クラス。私は留学生扱いということもあり、学費はまさかの1学期当たり1万ドル超え。学費を工面するためにも仕事を続ける必要があったのと、勉強一色の生活に嫌気が差すことも目に見えていたので、北米報知社で週に30時間程度仕事を続けながら、火曜日と木曜日の夜6時から9時半まで学校に通いました。このプログラムは、ボセル・キャンパスに加え、ベルビューにあるラーニング・センターでも開講されていて、ベルビューの自宅から通いやすかったことも大きな魅力でした。9月のスタートにギリギリ間に合うかどうかというタイミングで受験を決めましたが、GMATと呼ばれる英語と数学のテスト、TOEFL、2つのエッセイという課題を乗り越えて何とか合格! 夫の任期中に学位を取得する必要があったので、これが最初で最後のチャンスと思い、なかなか点数の伸びないTOEFLに泣きそうになりながらも、3カ月間は図書館に缶詰めとなり、久しぶりの受験勉強を味わいました。

個性豊かなクラスメートと充実の2年間

いざ入学すると、最初の学期はわずか13人(後にボセルのクラスからの移動や追加入学で25人程度にまで増加)。「そうか定員割れだったのか!」と無残なGMATのスコアにも関わらず合格できた背景に妙に納得しつつも、きっとこれも縁と思うことにしました。クラスメートは年齢も職業もバラバラで、マイクロソフトやボーイング、Tモバイルに勤める人、弁護士、ワシントン大学職員、看護師、投資会社の社員などなど。英語が第2言語だったのは私を含めて数人だけで、日本人は皆無でした。

クラスのメンバーと

必要な単位は必修科目と選択科目合わせて64単位。これまで文系一本で来てしまった私は、統計学やデータ分析のクラスでは予想通りの大苦戦。英語がわからないのはもちろん、これまで全く触れたことのなかった分野なので、たとえ日本語で説明を受けたとしても難しかったでしょう。どの科目にも共通していましたが、学問がわからないのか、それとも英語がわからないのかがわからない! つまずいたらまずは日本語で徹底的にやる。毎週課される膨大なリーディングにも相当手こずりました。ある日、クラスの友だちに「まさかこの量、一言一句読んでるの? バカか!」と言われてハッとし、特に時間のない時は割り切って概要部分をつかんで最低限のエッセンスは押さえるというやり方で何とか乗り切りました。ただ、やはりディスカッションは最後までつらかったです。ディスカッションのテーマは予想できるので、もちろん準備はしていくのですが、発話はOKとしても、それに対する相手の呼応まではカバーできず、正直なところ最後まで発言の全容がわからないクラスメートもいました。とはいえ、日本の教育というのはやはりすごいもので、テスト対策(ヤマの張り方?)は体に染み付いたものがあり、いざテストをやってみると、そこまで成績は悪くないものでした。

どのクラスでもグループでのプロジェクトが課されていたので、授業のない日の夜や週末はグループでのミーティングがあります。実際のビジネスの現場に近いところで学ぶクラスもあり、ビジネス戦略のクラスでは医療機器を扱うスタートアップに、またオペレーション・マネジメントのクラスではコミュニティーに新しくフードバンクを開設しようとしている団体に、マーケティングや組織構成、フロア・マップ、運営プランなど提案を行いました。一方、リーダーシップのクラスでは、チームのモチベーションを上げるにはどうしたら良いのか、なぜフィードバックが大事なのか、チームに多様性が必要なのはなぜか、組織が直面している状況に応じてどのようなリーダーシップが適切なのかといったテーマを、実験や論文に基づく学問的な事実やケーススタディーを通して学ぶことができました。

挑戦の日々を終えて

この2年間を振り返ってみると、受験準備のために図書館で半べそをかいていた日々がもう何年も前の出来事のような気がします。それだけ濃い2年間だったのでしょう。もう2度とごめんですが、同時に大人になってからの勉強がこんなに楽しいものだったのかと、学期ごとに湧き上がるこの感情には自分でも心底驚きました。また、日本の学校では先生側に絶対的な主導権がありましたが、職務経験を持つ学生が相手ということもあってか、教授陣も敬意を持って学生に接していた点はとても新鮮で素晴らしく思いました。時には学生が挑戦的に議論をふっかける場面や、学生の質問に対して先生があっけらかんと「うーん、それは私にもわからない!」と謙虚に言ってのける姿にも驚かされました。

各学期の最終日には必ず近所のバーへみんなでお祝いに繰り出した

また、グループワークの際にはとにかくチームとしての最大出力を目指します。チーム内の誰かが時間をかけて行ったリサーチや一生懸命作ったスライドでも、貢献しないと判断されれば、労をねぎらう言葉を投げかけつつも「これはスライドの付録にしよう(実際のプレゼンテーションでは日の目を見ない)」のひと言であっさり片付けられ、本人もそれに対して恨み節を言わない潔さと効率の良さがあり、感銘を受けました。私のスライドも、これまで相当付録を充実させてきたので、最後のクラスのプレゼンで18枚中の3枚に私のスライドが採用された時には心躍ったものでした。

学校の体系にもよりますが、仕事や家庭を持ちながら大学院卒業を成し遂げるには、やはり周囲の理解が不可欠です。睡眠不足が続いてイライラしたり、せっかくの休日なのに課題やミーティングに追われて出かけられなかったり、大好きなNBAのTV観戦にヘッドホンの使用を強いたりと、夫の生活にも不便をかけてしまった部分があります。夫の理解と協力がなければ、ここまでたどり着くことは不可能でした。また、学費の高いアメリカの大学院で学ぶという観点から言えば、夫の収入のおかげで生活の基盤が守られ、経済的な不安がなかったのは大きいことです。これは入学して数カ月後に気付いたことですが、パートタイムの大学院で学ぶ学生は勉強のほかにも仕事や家族があり、二足と言わず何足もの草鞋を履いています。特に私が入ったクラスは他人を蹴落として成り上がっていこうというよりも、急な出張や家庭の用事などを互いに補い合いながら、何とかMBA取得までたどり着こうという雰囲気にあふれており、本当に恵まれた環境でした。

卒業式当日北米報知社代表で本誌発行人のトミオモリグチとオフィス前で

ちなみに英語に関して言うと、入学当時は「2年後はここで話していること全てがわかるようになっているはずだ!」と期待を寄せていましたが、結果的に先生が言っていることで理解していたのは最後になっても6割程度、クラス内のディスカッションとなるとそれ以下だったと思います。それでも、スライドや周囲のサポートもあり、日々の予習復習を重ねれば授業にはついていけます。チームにもちゃんと貢献できます。

ひと昔前はMBA保持者と言えば少しはちやほやしてもらえたものですが、最近はそう簡単には行かないようで、日本の転職エージェンシーの担当者から「MBAを持っていてもあまり役に立ちませんね」とはっきり言われたこともあります。ただ、これは仕事で出会った方に教わったことですが、「努力を重ねてそこにたどり着いた人にしか見えない景色があって、その努力をしない外野に限ってネガティブなことを言うものだ」と。この学位を持っているからどうこうということではなく、ここで学んだことが私の中で血となり肉となっていることだけは確かだと信じています。この夏はたっぷり休んで、思いっきり趣味のテニスに打ち込み、これまで我慢を強いてきた夫に尽くす充実の時間を過ごしたいと思っています。