スペースニードルのないシアトルなんて、ちょっと想像できないのではないだろうか。今ではシアトルの代名詞的存在になったこのタワーは、1962年のシアトル万国博覧会のアトラクションとして建てられた。’ 62年は米ソ冷戦の緊張がピークに達し、全面核戦争へのリアルな不安が常に人びとの頭上にぶら下がっていた時代。その中で「Century 21Exposition(21世紀博覧会)」と題した万博は、科学技術がもたらす輝かしい未来を描いてみせた。ロケット打ち上げ競争でソ連に遅れをとったアメリカは国の威信をかけて全力で宇宙開発にとりくんでいたので、「科学と未来」にフォーカスした博覧会は連邦政府から破格の補助金を得た。
ミノル・ヤマサキの設計になる科学館(現在のパシフィック・サイエンスセンター)は、その連邦予算で建てられたが、スペースニードルのほうは万博の実行責任者だった地元のビジネスマンたちが民間の資金を集めて、構想からわずか2年半という驚くべきスピードで完成させた。
「遠く雪山を望み、まわりを静かな湾と湖に囲まれたシアトルの美しい景観を遠くからの来場者たちにアピールしたい。展望ポイントにもなり、万博のアイコンにもなるタワーを作ろう」という実行責任者たちの思いが実現していく過程は、クヌート・バーガー著『Space Needle:The Spirit of Seattle』に詳しく語られている。
建築家ジョン・グラハムの指揮でデザインを磨き上げ、耐震性も含む強度設計を固めてから、科学館のとなりに建設用地を見つけ、出資者を確保するまでが半年ほど。この時点で万博開催日はすでに1年後に迫っていた。その翌月には建設許可を得て、基盤工事を開始。約9メートルの深さの基盤を掘り、コンクリ−ト5600トンを流し込み、鉄骨を組み上げ、円盤型の展望室を乗せたタワーが完成するまでの工事期間はたった8カ月。日に日に高く伸びていくニードルは、高層ビルがまだほとんどなかった街のどこからでも見えた。宇宙時代を体現するような姿に市民は感銘を受け、万博の前売り券が飛ぶように売れ始めたのだという。
「ニードルは、未来を象徴し、街のシンボルとなっただけでなく、建設に携わったすべての人びとの技術とノウハウの集積でもあった」とバーガーは書いている。設計を担当した建築家たちやエンジニアたちにとっても、地上150メートルの高さの足場で命綱もつけずに作業に取り組んだ職人たちにとっても、スペースニードルの建設は生涯の誇りとなる仕事だったのに違いない。
[たてもの物語]