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歌のちから〜晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがしてVol.39

晴歌雨聴 ~ニッポンの歌をさがして

日本のポピュラーカルチャー、特に1960-70年代の音楽について研究する坂元小夜さんが、日本歌謡曲の世界を案内します。

歌のちから

8月に起きたハワイ・マウイ島の火災と被害の拡大は、きっと皆さんにとっても衝撃的なニュースだったのではないでしょうか。ラハイナの目抜き通りの変わり果てた姿に、東日本大震災のニュース映像がフラッシュバックしました。日本は地震大国です。あれから12年、被災地では力を合わせて地震や津波で壊されてしまった街を復興してきました。被災した人々の心を支えるもののひとつに、歌があります。

関東大震災が起きて今年で100年が経ちますが、その頃に大流行していたのが、野口雨情作詞、中山晋平作曲による「船頭小唄」です。悲しげなメロディーと後ろ向きの歌詞は、まるで震災を予兆していたかのようで、人々は不吉だと離れ、作家の幸田露伴も「こんなものが流行ったからだ」と辛烈でした。

一方、人々を元気付けたのは、大正の演歌師のひとり、添田さつきが歌った復興節です。演歌師とは、明治から昭和のラジオが普及するまでの間に活躍した流しの芸人のこと。添田は被災後に日暮里に流れ着き、演歌師仲間の依頼で復興節の歌詞を書いたそう。焼け野原のバラックで寝ながら月を眺めたり、お嬢さま育ちの少女が小豆売りをしたり、優雅に暮らしていた奥方が配給に群がる様子などを面白おかしく歌詞にしています。皆が打ちひしがれて静まり返った街頭で、不安ながらも報道歌(被害の状況などを伝える歌)を歌い始めると、みるみるうちに人が集まったため、軽快な曲調の復興節のほうも披露したところ、観衆に笑顔が戻ったのだとか。

その復興節は、元芸妓の藤本二三吉が歌ったものがレコードに録音され、同年12月に震災以来初の新譜リリースのうちの1枚として発売されました。被災した銀座のレコード店から明るいメロディーが久しぶりに流れてきたと想像すると、それはきっと復興の第一歩として象徴的な瞬間だったのだろうなと思います。 興味深いことに、「帝都復興祝歌」といった「復興」と名の付く曲がレコードとして多く発売されたのは、震災から7年が過ぎた1930年。政府の帝都復興事業の目処が立ち、同年3月に復興祭が行われたことと関係があるようです。

阪神・淡路大震災や東日本大震災でも数々の復興支援ソングが作られました。代表曲「花は咲く」は、花が咲き、新しい命が生まれることを歌い、復興のイメージにつなげています。先に紹介した、関東大震災時の流行歌「船頭小唄」の歌詞には逆に「花の咲かない 枯れすすき」とあり、なるほど、嫌われるのも無理はないと言えるかもしれません。個人的には、復興節のユーモアたっぷりの歌詞もまた、明るい方向へと導く大きな力を持つ気がします。

横浜生まれ東京育ち。大学院進学のために2015年に渡米。2020年よりロサンゼルス在住。南カリフォルニア大学大学院の博士課程にて日本の戦後ポピュラー文化を研究。歌謡曲と任侠映画をこよなく愛する。