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赤い靴はいてた「きみちゃん」〜みきこのシリメツ、ハタメーワク

第 39回 赤い靴はいてた「きみちゃん」

赤い靴はいてた女の子 いぃじいさんに連ぅれられて、行っちゃったぁ 横浜の埠はとば頭から 船に乗ぉってぇ、いぃ人さんに連ぅれられて、行っちゃったぁ

麻布十番の広場、パティオ十番を歩いていたら、この歌のモデル「きみちゃん」の銅像に出くわした。昭和世代の人なら聞いたことがあると思う、あの歌だ。

子どもの頃は「いい爺さん」だと思っていた。小学校に入る頃は、もしかして「ひい爺さん」かな?とも考え、そして高学年か中学生になると「異人さん」だとわかる。「いい爺さんに誘拐されちゃったの?」と思った頃から、外国人の「いい爺さんに養女にもらわれて行っちゃったんだ」と理解はしたが、何とも寂しい音色の歌だ。

実はきみちゃんは、外国へは行かなかった。当時不治の病だった結核を患い、9歳で亡くなってしまったのだ。

母の名は岩崎かよ。未婚の母であるため風当たりが強く、北海道への開拓団として3歳のきみちゃんも連れて函館へ行く。そこで知り合った鈴木志郎と入籍したが、幼い子どもを連れての開拓は厳しく、やむを得ずアメリカ人の宣教師、チャールズ・ヒュエット夫妻に養女として託す。

その2年後、入植はうまく行かず、かよと志郎は、ふたりの間に生まれた「そのちゃん」を連れて札幌に移る。志郎は新聞社に仕事を見つけ、同僚の野口雨情と共同生活を送るほど、両家族は親しくなった。そんな時、雨情はかよの残してきたきみちゃんへの思いを聞くにつれ詩をつづり、本居長世が曲をつけ、「赤い靴」の童謡が出来上がった。なるほど、寂しい歌なんだ。

かよは、きみちゃんを思い続け、だが娘の死を知らないまま「きみちゃん、ごめんね」と言いながら昭和23年、64歳でこの世を去った。

この話が明らかになったのは、異父姉妹の岡そのによる「赤い靴の女の子は、会ったこともない私の姉です」という投稿記事が昭和48年11月の夕刊に載り、当時、北海道テレビ記者だった菊池 寛が、5年もの年月をかけて調べ抜いた結果だそう。

「赤い靴はいてた女の子」は実在していたのだ! 帰任が決まったヒュエット牧師は、結核のきみちゃんのアメリカへの長い船旅を懸念し、現在の十番稲荷神社の場所にあった鳥居坂教会の孤児院に託した。そこできみちゃんは、3年間も闘病生活を強いられ、明治44年9月に亡くなっていた。

パティオ十番のきみちゃんの銅像(作:佐々木至)は、心を打たれた十番商店街の人たちによって平成元年に建てられた。お墓は青山霊園に、お父さんの姓で「佐野きみ」と刻まれている。

きみちゃん、お父さんもわかって、良かったね。


▲ 麻布十番商店街の一角に建てられた、赤い靴の女の子・きみちゃん像

東京都出身。2000年から2005年まで姉妹紙『北米報知』ゼネラル・マネジャー兼編集長。「静かな戦士たち」、「太平洋(うみ)を渡って」などの連載を執筆。2020年11月に日本に帰国。同年、著書『ゼッケン67番のGちゃん』を刊行。