第50回 300レストラン
シアトルに住んでいた頃、子どもたちが集まった日曜のブランチでいく店は、大抵「300(スリーハンドレッド)」だった。イージーオーバーかサニーサイドアップの目玉焼きをご飯の上にのせ、ソーセージかハム、またはベーコンをサイドに、卵の黄身がたらりと流れてきたあたりでお醤油をかけて食べるのだ。考えただけでもツバキがゴクリ!
でも、それがなんで「300」?
1976年に渡米し、初めてアメリカでおいしいと思った料理がこれだった。場所は サウス・ジャクソン・ストリートにあった「300レストラン」。300とは、シアトルの住所はイエスラー・ウェイから南へブロックごとに番地が100ずつ増えていく。ジャクソン・ストリートは300番台なのだ。
オーナーは日系のテリー・ナカノさん。お母様の鶴子さんは当時2館あった日本映画上映館の一つ、東洋シネマを経営していた。夜のレニア街は危ないから行くなと言われていたが、なんのその。私は友だちと月1回は寅さんを観に行っていた。
鶴子さんは細身で背も高く、とても上品な方だったけれど、どういうわけか、暴力団の親分の連れ、などといううわさも立っていた。当時の日系移民の世界はとても狭く、変なうわさも、ひいき目のうわさも飛び交っていたと思う。当時は、アジア人女性はストレートな長い黒髪が神秘的な憧れを彷彿とさせるという、アメリカ人にとってのステレオタイプがまかり通っていた。それをくつがえそうと努力したのが、日系クイーン委員会の会長だったテリーさんなのだ。
毎年コンテストで日系クイーンを決める。合気道でも日本舞踊でも、何か特技を披露し、スピーチをする。ナヨナヨした日本女性の殻を破らせ、いっぱしのアメリカ人としての人間性を自他共に認めさせるという目的があったのだろう。選抜された日系クイーンたちは、ほとんどがシアトル市の肩書きある公務員になった。ちゃんと意見を論理的に主張でき、マネージメント力も、人を引っ張っていく能力も培った。
そんなテリーさんのレストランの奥でソーセージをひっくり返して調理していたおじさんがいた。
ちょっと怖い顔をして、無口で、ただただ焼き物をしている。聞いたところ、戦艦ヤマトの生き残りの1人という。が、その話を本人が語ることはなかった。戦争から生還するということは屈辱に等しく、神風で散る、捕虜になる前に自決するというのが美徳とされていたからだ。何年か経って、川部メモリアル・ハウスに入ってから、電話でインタビューができるか聞いたことがあるが、答えはノー。
今年は終戦後80年になる。毎年8月になると、あのおじさんのことを考えてしまう。何も考えずに「300レストラン」で仕事をしてた頃が、幸せだったんだろうな、と。

















