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角 潤一さん〜在シアトル日本国総領事館 首席領事

在シアトル日本国総領事館 首席領事
角 潤一さん

外務省の中で中東地域、特にイラン・ペルシャ語のスペシャリストとして活躍する角さんは、一般的な外交官のイメージを覆す「異色の外交官」として、多方面で業務に邁進しています。本業はもちろん、「アフターファイブ」にも全力投球する裏には、確固たる信念がありました。一度会ったら忘れられない強烈な個性を持つ角さん。これまでの任地での体験や自身の「オーラ」の源泉について語ってもらいました。

取材・文::シュレーゲル京希伊子 写真:本人提供角 潤一

角潤一 1973年生まれ、島根県出身。青山学院大学国際政治経済学部を卒業し、1998年に外務省に入省。在外研修中にロンドン大学アジア・アフリカ研究学院(SOAS)で中近東学の修士号を取得。中東地域、ペルシャ語の専門家。外務本省のほか、イラン(2回)、アフガニスタン、イラク、ニューヨーク(国連代表部)に勤務。東京に妻と一男一女を残し、2023年3月から現職。
出雲から世界へ羽ばたくことを夢見た少年時代
角さんが生後間もない頃に住んだ家は現在、世界遺産の区域内にある。2007年に登録された島根県石見銀山いわみぎんざん の一角を占める大森銀山地区だ。そこから50キロ離れた出雲市に2歳の時に家族で引っ越して以来、高校卒業まで出雲で過ごした。生粋の「島根県人」であり「出雲っ子」だ。
子どもの頃は勉強にもスポーツにも秀でた少年だった。小学校では児童会長を務め、通年のサッカー部と吹奏楽部(ホルン)に加え、夏季には水泳部、秋季には陸上部、冬季には体操部に所属。中学校では生徒会議長に任命され、サッカー部でも活躍した。角さんの通った出雲第三中学校は、当時、身体能力の高い生徒はなぜか必ずサッカー部に所属するという暗黙のルールがあり、角さんが3年生の頃には全国大会にも出場するほどの強豪校になっていた。地元の進学校、出雲高校に進むと、一転してバスケットボール部に入部。一学年が11クラスというマンモス校だったが、特進クラスに選抜された。
目立つ存在だったにもかかわらず、角さんにはその頃の記憶がほとんどない。「とにかく、田舎から出たいという気持ちが強かったんです」。まだインターネットのない時代。都会との格差はとてつもなく大きく感じられた。「野球のテレビ中継で延長戦に入ると、『一部の地域を除いて放送します』と出ますよね。あの『一部の地域』というのに住んでいることに愕然としました」
出雲高校の卒業アルバムから。やんちゃな面影が残る
「絶対に東京、いや、海外に出たい」。同級生の多くが島根大学や広島大学、遠くても大阪方面に進む中、角さんは既に海外を目指していた。念願通り東京の大学に入学したものの、それだけでは飽き足らず、3年次に自主休学してボストンとイギリス南部のブライトンに計9カ月の語学留学へ。帰国すると、4年生に進級していた友人たちは皆、就職が決まっていた。その後も角さん自身は進路の定まらぬまま、気付けば最終学年の春を迎えていた。そんな時、高校の同窓生を通じて外交官試験の存在を知り、「働きながら、2、3年も海外研修が受けられるなんて、これしかない!」と思った。
そこで学内の勉強会に入って本格的に試験対策を始めたのが4年次の12月のこと。翌年の6月に実施される外交官試験に向け、勉強に没頭した。生活を支えてくれたのは、当時交際中で後に妻となる有希子さんだった。無事一次試験に合格した角さんは二次試験の面接で、外務省に入りたい理由を問われ「オーラを放つ人間になりたいのです」と応じた。「我ながらよく言ったと思います」と角さんは笑う。「普通では会えないような人に会い、普通ではできないような生活をすることで、自分が変われるのではないか。今と違う環境で自分を試してみたい。そんな気持ちが強かったんですね」。要は変身願望に駆られていたのだと角さんは振り返る。結果は見事、合格。「出雲から世界に出たい」。その願いが叶った瞬間だった。
イランの専門家として奮闘する日々
外務省に入省後、角さんは「イラン専門家」としての道を歩み始める。持ち前の行動力と勘の良さで難解なペルシャ語を習得し、最初の研修先のロンドンでは、ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院(SOAS)でイラン人の教授に師事し、中近東学の修士号を取得した。ロンドン滞在中は、新婚の妻と別居して、亡命イラン人作家宅にホームステイ。語学だけでなく、イランの風習や考え方を肌で吸収する最短の道だった。残りの1年半はイランに移り、2人のイラン人家庭教師による集中レッスンとテヘラン大学の付属機関でペルシャ語を学んだ。
故郷の出雲大社で結婚式を挙げた(1999年6月)
ロンドン研修時代にホームステイさせてもらった亡命イラン人作家と再会
そこからイラン専門家として、怒涛の活躍が始まる。イラン人社会に飛び込み、幅広い人間関係を構築して、正確かつ客観的に情報を収集・分析することに長けていた角さんは、イラン人特有の心の機微きびを理解できる貴重な人材として、両国の関係者から厚い信頼を寄せられる存在となった。
外交官の仕事には「リエゾン」(連絡調整役)と呼ばれる職務がある。総理や大統領などの要人が他国を訪問する際に同行し、現場での突発的な問題を解決する役割を担う。素早い判断力や機転が求められる仕事だ。角さんはこれまで、2019年6月、イスラム革命後初めてイランを訪問した安倍総理(当時)や同年12月に訪日したイランのローハニ大統領(当時)のリエゾンを務めたほか、2008年3月、アラグチ駐日イラン大使(現外務大臣)による信任状捧呈に際して天皇陛下の通訳も担当した。「こうした経験が自分の財産であり、自信につながります」
イランを訪問した安倍総理(当時)のリエゾンを務める角さん(右から3番目)2019年撮影
もちろん華やかな仕事だけではない。2003年11月、角さんの価値観を大きく揺るがす事件が発生する。イラクで2名の日本人外交官と大使館運転手が何者かに襲撃され、殺害されたのだ。当時イラクは戦争が終結し、国際社会が復興支援に乗り出していた。日本からも近隣諸国に駐在する外交官が代わる代わる応援に入っていた。角さんも、事件が起きる3カ月前にテヘランから出張して隣国イラクに滞在。殉職した外交官のうち1人は角さんと同い年のアラビア語専門家だった。
この事件を境に、「人生を3倍速で生きる。迷ったら挑戦。失敗上等。何もせずに後悔するのは御免だ」という気持ちで毎日を生きるようになった。角さんが救出に関わった命もある。かつてイランで日系米国人ジャーナリストが逮捕・拘禁された際、早期釈放を働きかける日本政府高官の発言ラインを角さんが起案。絶対に譲れなかった「イラン人の胸に突き刺さる文言」を盛り込み、イラン側のトップへと伝えられ、他の関係国らの働きかけもあり、紆余曲折を経てジャーナリストは釈放された。
アフガニスタンでも、死は身近なものだった。タリバン政権崩壊直後の2001年12月、角さんは志願してアフガニスタンに赴き、鳩山由紀夫民主党代表(当時)の通訳も担当。その後、2004年からはカブールの日本大使館に2年間勤務した。長らく紛争が続いていた同国で出会った部族の長には、生死を賭けた戦いを生き抜いた者だけがまとうただならぬ「オーラ」があった。角さんは、「そんなアフガニスタンでの生活も楽しい思い出がいっぱいです」と振り返る。毎日のように政府関係者や国連、独立行政法人国際協力機構(JICA)の職員らを招き自宅でパーティーを開いたという。情報収集と人脈構築が目的ではあるが、一期一会を大切にする角さんらしい。
アフガニスタンのパンジシール渓谷にて(2004年頃)
カブール近郊の地雷除去現場を視察(2006年頃)
角さんの活躍は、意外なところにも及ぶ。2020年、新型コロナウイルスが世界を襲った際、角さんは在イラン日本国大使館で総務班長(兼広報文化センター長)を務めていた。イランは当時、中国、イタリアに次いで世界で3番目に感染者数が多く、しかも日本の在外公館がある地域で感染症危険レベル3になったのはテヘランが初めて。国境封鎖が相次ぐ中、在留邦人の退避ルートを確保し、日本語での情報を提供するなど、大使のもとで陣頭指揮を執った。
自分にしかできないミッションに全力投球
激動のイランや紛争地イラク、アフガニスタンを計12年近くも渡り歩いた角さんにとって、シアトルは刺激に欠けるのだろうか、との問いに「そんなことはありません。『退屈だ』と言っている人こそが退屈な人物なのです」と。シアトルでなければ経験できないことも沢山あるそうだ。たとえば、日系コミュニティーとの交わり。日系人の歴史が古いシアトルには多くの県人会があるが、角さんはこれまでに10の県人会に個人で入会している。また、日系人や在留邦人、米国人、イラン人など当地でのネットワークを広げようと、毎月数十名から100名近い規模のパーティーを個人で主催している。
幼い長女を連れて街頭行進に参加。2015年3月、ニューヨークの国連代表部に勤務していた頃
角さんの「エンターテイナー」としての才能は評判を呼び、さまざまなイベントから声がかかるように。シアトル発祥のパブリック・トークイベント「イグナイト・シアトル(https://igniteseattle.com)」やJIA主催の成人式USAでのスピーチ、ジャパンフェアの大トリでの歌唱など、活躍の場は広がるばかり。プライベートでは、グイダック堀りやビール醸造など、面白そうなことには片っ端からトライ。「挑戦あるのみ」だ。
シアトルに赴任して以来、毎月開催するポットラックパーティーは、参加者たちの人脈づくりの場ともなっている
また、図らずも出雲との縁も感じている。日系社会の歴史が刻まれているワシントン州日本文化会館(JCCCW)の展示スペースに、国語学校(現シアトル日本語学校)の初代校長で日系人のリーダーだった三原源治氏の書簡が飾られている。実はこの三原氏は出雲の出身。また、あれだけ嫌で飛び出した故郷島根であったが、今では島根県知事からの委嘱を受け、県の親善大使である「遣島使」を務めている。「誇れる田舎があるのは、良いものですよ」
2022年から島根県の親善大使「遣島使」に就任
2024年のジャパンフェアで北島三郎の「まつり」の替え歌ジャパンフェア・バージョンを熱唱
さらに不思議な縁が待っていた。外務省で2期上のペルシャ語の先輩が、米国で研修したことは聞いていたが、それがシアトルだったとは知らなかった。ところが赴任してすぐ、立ち話をしたイラン人との会話で、その先輩が26年前に彼女の実家でホームステイしていたことを知る。そして、彼女の傍らに立ち角さんに名刺を差し出してきた女性が、当時その家にいた3歳の孫娘で、今では、イラン系アメリカ人女性で初の州下院議員になっていることが分かり驚いたという。こうした偶然が重なり、「シアトルに呼ばれたのかな、と思っています」と角さんは話す。
実はイランについて知られていないことは多い。角さんから見たイラン人は、「ペルシャ帝国の末裔だけあって、知的で頭がよく、コミュニケーション能力が高い」。義理堅く、日本の演歌の世界に通じるものもあるそうだ。また、イランには反米のイメージが強く、それも実態の一面ではあるが、一方で、例えば、2001年の同時多発テロ事件が起きた際、国民の多くは「どうか、実行犯がイラン人ではありませんように」と案じ、当時のハタミ大統領は犠牲者を悼むメッセージを出した。市民による追悼集会も開かれた。しかし、一部メディアでは別の画像や動画が恣意的に使われ、「祝砲を挙げている」と誤報されたこともあったという。
苦労して釣り上げたシルバーサーモン。次の狙いはキングサーモンだそう
シアトルビール部の一員としてビールを醸造する様子
角さんをよく知る人は、彼のことを「イラン人」と呼ぶ。ところが、世間にはそれを快く思わない人もいる。「テロリスト国家の片棒を担ぐ」と誤解されたり、角さんの書いた記事がバッシングされたりすることもあった。しかし角さんの気持ちは揺るがない。「中東の大国イランは、日本のエネルギー安全保障にとって極めて重要な地域にあり、シルクロードの東西の端に位置する両国は伝統的な友好関係を保っている。またイランは、1979年の米国大使館人質事件以来、アメリカと国交断絶しているため、アメリカが日本に『情報が欲しい』と頼む国、中東地域の安定にとり鍵となる国です。そんなイランを主戦場とし、『イラン人』と呼ばれることを、誇りに思います」
「オーラを放つ人間になりたい」。そう面接官に話した若き角さんは、現在、「異色の外交官」として唯一無二のオーラを放つ。それは、角さんが「自分にしかできない何か」を得たからにほかならない。高い「人間力」と「現場に飛び込む胆力」が角さんの魅力であり、優れた外交官としての資質である。角さんと関わった人は、日本人離れした、一般的な「役人」のイメージを覆す角さんに魅了され、自然と心を開いていく。そこが中東であろうとも、北米であろうとも、世界のどこであろうとも……。今日も角さんは目を輝かせながら、一度きりの人生を全力で駆け抜けている。

 

 

シュレーゲル 京 希伊子
フリーランス翻訳家・通訳。外務省派遣員として、92年から95年まで在シアトル日本国総領事館に勤務。日本へ帰国後は、政党本部や米国大使館で外交政策の調査やスピーチ原稿の執筆を担当。キヤノン元社長の個人秘書、国連大学のプログラム・アシスタントなどを経て、フリーに転身。2014年からシアトルへ戻り、一人娘を育てながら、 ITや文芸、エンタメ系を始めとする幅広い分野の翻訳を手がける。主な共訳書は、金持ち父さんのアドバイザーシリーズ『資産はタックスフリーで作る』など。ワシントン州のほか、マサチューセッツ、ジョージア、ニューヨーク、インディアナ、フロリダにも居住経験があり、米国社会に精通。趣味はテニス、スキー、映画鑑賞、読書、料理。