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INTERVIEW:シアトルにおける江戸前寿司のパイオニア 加柴司郎さん

平成も終わる2019年3月25日、農林水産省から「日本食普及の親善大使」に任命された加柴司郎さん。太平洋戦争が始まる1941年に生まれ、激動の昭和を経て、令和の時代になお現役を貫きます。シアトルから世界へ、日本の食文化を広める司郎さんの寿司職人としての歩みを振り返ります。

取材・文:越宮照代 写真:本人提供

外国でおいしいお寿司を作ってサービスすること。
それがいちばん大事なんじゃないかと

寿司職人と西洋に憧れた少年時代

京都に生まれ、京都で育った。4人兄弟の3番目。父親は小学校の校長だった。寿司職人とは縁がなさそうな環境だが、この道に入るタネは少年の頃、すでにまかれていた。

終戦直後、当時の一般家庭では、外食は特別なことだった。子どもにとっては特にそうだろう。司郎さんもたまに一家で先斗町ぽんとちょうにある江戸前寿司の店に行くことがあった。「板前さんのかっこ良さに引かれたんです」。寿司を握る板前の「いらっしゃい!」という威勢の良いかけ声やキビキビとした動きに、すっかり魅了されたと言う。「(板前の仕事は)司郎に合うんじゃない」という母親の言葉も、強く心に残った。こうして「江戸前寿司の職人になりたい」という夢が、司郎少年の中にしっかりと根付いていった。

その頃、京都では駐留米兵が街を闊歩し、駆け寄ってくる子どもたちにチョコレートやガムを振る舞っていた。少しずつ普及し始めたテレビでは、アメリカのドラマが放映された。この時代に育った子どもたちは多かれ少なかれ、欧米への憧れを抱いたものだ。司郎さんの場合、父親が4人の子どもたちに「お前たちのひとりくらいは、外国に行って仕事をするのだろうな」と常日頃言っていたという。それも自分の夢として培われたのではと司郎さんは回想する。

ユニバーシティーディストリクトのファーマーズマーケットで買い物中の司郎さん

学べて、ご飯も出て、こんなありがたいことはない

「中学を出たら寿司店で修行したい」と父親に訴えた司郎さんだったが、高校くらいは卒業するようにと諭された。高校卒業と同時に知り合いのつてで、東京・銀座の与志乃という、江戸前では超一流として知られる店への弟子入りを果たす。与志乃の本店は京橋だが、司郎さんはまず数寄屋橋の支店で働くことになった。ドキュメンタリー映画「二郎は鮨の夢を見る」に登場し、アメリカでも一躍有名になった店だ。映画の主人公、小野二郎さんは当時すでに数寄屋橋店の支店長だった。司郎さんは他の従業員3、4人と住み込みで、朝早くから夜遅くまで働いた。「親父さんと一緒に市場へ行っては新鮮な魚の見分け方を学び、下ごしらえでは仕込みの仕方を学び、ご飯の炊き方から混ぜ方、包丁の使い方研ぎ方、魚のおろし方、何から何まで、全ての基本を体で覚えました」

地元で獲れたウニの下ごしらえをする司郎さんと鈴木安孝シェフ写真左

最初の1年半を数寄屋橋店で過ごし、その後、京橋の本店に移って5年。その修行時代の日々を、司郎さんは「毎日が楽しかった」と振り返る。「日本には四季があり、季節ごとに違った海産物が獲れます。それに合わせた仕込みが学べて、ご飯も食べさせていただいて、こんなありがたいことないじゃないですか(笑)。自分の道を自分で決められたのは、ラッキーだったと思います」

その土地で獲れた旬の魚を生で食す江戸前

寿司職人として充実した日々を送りつつも、外国へ行く夢は膨らむばかり。友人が外国に旅行すると聞けば、「日本料理店の情報が欲しい」とリクエストした。もらったレストランの箸袋にあるアドレスを手がかりに、何軒ものレストランに手紙を出すものの、ほとんどがなしのつぶてで、実を結ぶことはなかった。そんな中、シアトルとのつながりは意外にも身近なところから生まれた。貿易関係の仕事をする与志乃の常連客が、シアトルの日本料理店、田中のオーナーに司郎さんを紹介してくれたのだ。まだインターネットはなく、国際電話も高額な時代。文通で2年かけて信頼関係を築き上げた。当時の手紙は今でも司郎さんの手元にあり、2011年出版の自伝『SHIRO WIT, WISDOM & RECIPES from a SUSHI PIONEER』に、その一部が写真と共に掲載されている。司郎青年の情熱にほだされたオーナーが東京に来て、ようやく面接が叶うと、オーナー全面協力の下、渡米に向けて着々と準備が進んだ。司郎さんの真面目な人柄が気に入られたのはもちろん、銀座の名店、与志乃での経験が買われたことも大きかったようだ。

寿司かしばで提供される刺身おまかせ

1966年12月1日、シアトル・タコマ国際空港に到着した。その日のことを司郎さんは、「飛行機に乗ったのも生まれて初めて。何が何だかさっぱりわかりませんでしたが、この日を夢見て努力してきたので感激しました」と語り、微笑んだ。最初はオーナーの配慮で、シアトルには学生ビザで滞在することになり、コミュニティー・カレッジに通った。日本との貿易拠点となったシアトルには、日本料理店が田中以外に武士ガーデン、まねき、天勝など数軒あったという。顧客は日本人、日系人が中心だった。木材、漁業、ボーイング関係で、日本の商社からの駐在員が多く、また、日本と行き来するアメリカ人ビジネスマンも司郎さんの寿司をよく食べに来ていた。「田中には寿司カウンターがなかったので、キッチンで江戸前寿司を作って出していました」。田中に限らず、シアトルに寿司カウンターのある店は1軒もなかった。しかし、シアトルでアメリカ人の間にも少しずつ寿司は浸透していった。

ローカルのグイダックを使ったにぎりと刺身

その土地で獲れた旬のものを食べるというのが、江戸前の基本精神。「ローカルの魚介は、私が初めてお寿司にしたものがたくさんあります」。寿司ネタとしてすっかり定着しているグイダック、オーシャンスメルト、レーザークラムは、全て司郎さんがシアトルで初めて寿司刺身としてサービスしたものだ。当時は、タダ同然で入手できた。グイダックに関してはこんなエピソードがある。田中にグイダックを持参した客がおり、「これで何か作って欲しい」と言われて司郎さんが寿司にして出した。「そうしたら大喜びされて。ほかに売っているところはないですからね」。それまで地元で見向きもされなかった海産物を次々に寿司として紹介していった司郎さん。それらの多くが、今ではシアトルだけでなく全米、そして世界各地で、珍味として重宝されるようになっている。司郎さんが「パイオニア」と呼ばれるゆえんだ。一方で、そのために乱獲が進んでいる魚介もあり、少し責任を感じているとも話す。

シアトル初の寿司カウンター

田中はインターナショナル・ディストリクトの繁盛店だったが、オーナーが交通事故で他界。しばらくはオーナーの妻が引き継いで経営していたものの、結局は売りに出された。それを知った近所の店、まねきから声がかかり、司郎さんは同店で働くようになった。1970年のことだ。まねきのオーナーを説得して造ったシアトル初の寿司カウンターは、今も健在である。そこで1年働き、1972年には自分の店、日光をインターナショナル・ディストリクトに開業。間もなくして日本のバブル景気が沸騰し、シアトルには日本の商社がこぞって支店を開設したこともあり、日本からのビジネスマンが集まるようになった。まさに時代の波に乗っていた。そんな中、世界的ホテル・チェーンのウェスティンを買い取った青木建設(現・青木あすなろ建設)がその人気ぶりに目を付ける。オリジナルの日光レストランを青木建設に売却し、2年後にシアトルのウェスティン・ホテル内に青木建設が日光レストランをオープンする運びとなったが、1年後に司郎さんは退職した。シアトルに来て約20年、ほぼ休みなしに働いてきた司郎さんは、少しの間、休業することを決断する。

かつての師匠与志乃数寄屋橋店長の小野二郎さんと2018年東京で再会

「日本やヨーロッパを旅したり、ビジネスチャンスを模索してベトナムに行ったり、東京で友人の料理店オープンを手伝ったり。ゴルフを月に28回したことも(笑)。いろんなことをしましたよ。それまで、そういう時間はなかったですからね。日本をあまりにも知らなさ過ぎました。やはり見識を広めないと。大事なことだと思います」。有意義な2年半の骨休めを経て本職の寿司職人に戻り、1994年、新たな寿司店をベルタウンに開店。今では全米にその名を知られる、しろう寿司だ。20年後に同店をベルビューの寿司店グループ、アイ・ラブ・スシに売却。「引退!?」と世間では騒がれたが、2015年に協力者を得てパイクプレイス・マーケットに、寿司かしばをオープンした。言わずと知れたシアトルの観光のメッカで、寿司ネタの値段も土地の値段も高騰しているシアトルの一等地。決して気軽にふらりと入れる店ではない。客の半数以上が他州または外国からで、地元の人も特別な日に訪れることが多い。「おまかせがほとんどです。外国の人は魚の名前も知らず、何をオーダーしていいかもわからない。それで、おまかせという言葉が流行ったんですね。その代わり、作るほうには責任があります。楽しんでいただいて、喜んでもらって、お金を払っていただくと(笑)」

ローカルの魚介は、私が初めてお寿司にしたものがたくさんあります

日本食普及の親善大使としての役割

2011年、70歳を節目に何か思い出になるものを残してはどうかと進められ、自伝を出版。シアトルの出版社、チン・ミュージック・プレスが司郎さんにインタビューをしてまとめた。幼少の頃から現在に至るまでの司郎さん、そして料理の写真が多く掲載されている。最後のレシピコーナーには寿司飯の作り方から寿司の握り方、スメルトのさばき方まで、司郎さん直伝のコツが満載。英語だが、平易な言葉が使われているため読みやすく、カリフォルニア州の学校では教材に使われたそうだ。

現在、シアトルの和食シーンを盛り上げているシェフたちは、司郎さんの下で、あるいは共に働きながら学んだ人が少なくない。寿司割烹田むらの北村太一さん、航(わたる)の汲田航太郎さん、Wa’zの俵 裕和さん、みやびの石倉正昭さん、しろう寿司の小林 純さんなど、そうそうたる顔ぶれだ。それぞれが江戸前寿司を出す店で成功している。「弟子という気持ちはないですよ、仲間です。なんだかんだ言ったって、商売は競争ですからね。甘いもんじゃありません」と言いつつも、「せっかく何かやりたいという野望を持ってアメリカに来たのだから、彼らがその夢を実現してくれたらうれしいし、できるだけ手助けをしたい。外国人に対する日本の食文化への理解を広める1歩ともなります」と、自分の持っている知識や技術は惜しみなく披露する。

秋には松茸も調理するもちろん地元で採れたもの

アメリカで江戸前寿司を広めることに専心してきた司郎さんだが、今では日本にも進出し、注目を浴びている。2018年、中部国際空港セントレアのボーイング787初号機を展示する博物館、フライト・オブ・ドリームズ内に寿司Shiro Kashibaを出店。「シアトルテラス」と呼ばれるシアトルを模したモールに、フランズ・チョコレート、ビーチャーズ・ハンドメイド・チーズ、パイク・ブリューイング、スターバックスなどシアトルを代表する店と共に並ぶ。同ウェブサイトでは、「シアトルで知らない人はいない『加柴司郎シェフ』が日本に凱旋」と紹介されている。

しかし、司郎さんは「シアトルにいるからこその話。私などは日本に帰ったら大勢の寿司職人のひとりに過ぎません」と、決しておごらない。「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」とは、こういう人のことなのだろう。今年は日本農林水産省から、シアトルで寿司職人として長年にわたり活躍してきたとして「日本食普及の親善大使」に任命された。「名誉なことで、何をしようか迷っているところです。今やれることは、外国でおいしいお寿司を作ってサービスすること。それがいちばん大事なんじゃないかと。そう思っています」。そんな司郎さんに「引退は?」と問うと、「考えていません。生涯現役ですよ」と言って、にっこり笑った。

加柴司郎◾️1941年京都生まれ。1959年、江戸前寿司店、与志乃で弟子入り。1966年にシアトルへ渡り、寿司職人として日本食レストラン、田中に勤務。1970年、まねきに移り、1972年に独立して日光を開店する。1987年日光を売却。1994年にしろう寿司を開き、2014年に一時引退。2015年、寿司かしばをオープンし現在に至る。2018年には、中部国際空港内「シアトルテラス」にて寿司Shiro Kashiba出店。著書に『SHIRO WIT, WITHDOM & RECIPES from a SUSHI PIONEER』(Chin Music Press)がある。