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「におい」いろいろ〜シニアがなんだカナダで再出発

在シアトル日本国総領事館に現地職員として39年間勤務した後に、2013年定年退職した武田 彰さんが綴るハッピー・シニアライフ。国境を超えるものの、シアトルに隣接する都市であるカナダのバンクーバーB.C.で過ごす海外リタイアメント生活を、お伝えしていきます。

「におい」いろいろ

エレベーターに乗り込み、「しめしめ、誰もいない」と思った瞬間につい気が緩み、ガスを放出してしまう。ところが因果応報、そういうときに限って「チーン」と扉が開き、誰かが乗り込んでくるのだ。私は心の中で「違いますよ、私じゃないよ」と全力で念じながら、そっと鼻を動かす。――まだ臭う。あの耐えがたい沈黙、狭い空間に漂う疑惑の煙。逃げ場のない臭いほど恐ろしいものはない。
この「逃げ場のないにおい」は、日常のあちこちに潜んでいる。たとえばタバコ。歩いているとなぜか煙の風向きは必ずといっていいほど自分に向かってくる。北米や日本では公共の場での禁煙が進んではいるものの、ビルの入口付近や歩きタバコから逃れるのは容易ではない。
バスルームには、昔買い集めたコロンが今も並んでいる。マリリン・モンローではないが、寝る前に首もとに少しつけて香りを楽しむ
エッセンシャルオイルは日常の相棒。アロマバスでリラックスし、ときに薬代わりに使い、香りに包まれ眠りにつく
嫌いなにおいはほかにもある。洗剤や乾燥機の柔軟シートの香りだ。特に、どこの家庭にもあるあの緑色の食器用や洗濯用洗剤のにおい。週末になると上下階から乾燥機の排気に混じった香料付きの空気がベランダの換気扇を通って漂い込み、1時間は消えない。実際「香害こうがい」という言葉があるほど、強いにおいや香料が頭痛やアレルギーなどを引き起こすことが社会的な問題になっている。
「密室の不幸」は朝の満員電車やバスにもある。隣の人の強烈なコロン、あるいはつり革にぶら下がる通勤者たちから「わき」出るデオドラント臭。本人にとっては爽やかさの象徴でも、周囲にとってはしばしば苦行だ。幸いバンクーバーの診療所や歯科医院には「フレグランスフリー」が掲げられ、香水やコロンを控えるよう呼びかけているところも少なくない。これは、香りに敏感な人が一定数いる表れでもある。
もちろん、においには功もある。映画館のポップコーンの香ばしさには、法外な値段だと知りつつあらがえる観客は少ないし、屋台のハンバーガーや韓国料理店の焼肉の煙は食欲を刺激する。さらに、人は本能的に相性の良い体臭を持つ人に引かれるともいわれる。かんきつ系のせっけんのような清潔感ある香りや、どこかフェロモンを感じさせるようなほのかな香りは、不思議と人の心をひきつける。まさに「恋は鼻から始まる」のかもしれない。
中華街の風、牛すねの香り漂う「レッドビーフヌードル」。街はコロナ禍から息を吹き返していた
社交ダンスで相手の香水が強すぎると、気が散ってしまい、リードをうっかり外すことがある
そうはいっても、においの好みは複雑だ。私は花の甘い香りが少々苦手。むしろ、ハーブを指でもんだときのフレッシュな香りの方がずっと健康的で心地よい。いわば「花よりバジル」派である。
コロン選びについても不思議に思う。男女とも「自分が好きなにおい=異性も好きなにおい」と考えがちだが、自分は女性用の香水がどうにも苦手。逆にすれ違った男性からいい香りがすると、思わず「それ、なんというコロンですか?」と聞き、自分用に買ってしまうこともある。他人をひきつけるための香水が、結局は自分自身を満足させるためのものになっているのだ。
バンクーバー・ノースショアで森林浴。空気に混じる木々のほのかな香りがなんとも心地良い

ポップコーンの香りに誘われて。日本映画と韓国映画も軒並み出品された秋恒例のバンクーバー国際映画祭「VIFF」へ
においは人の記憶や感情に直結する強力な刺激である。一瞬で昔の恋人や故郷を思い出させることもあれば、知らない誰かが使う香料が頭痛を引き起こすこともある。嗅覚中枢は記憶をつかさどる海馬や感情をつかさどる扁桃体へんとうたいに近いため、香りが強烈に心に刻まれるのも道理だ。
私たちにできるのは、好きな香りを楽しみつつも、公共の場では「他人も同じように心地よいとは限らない」と意識することだろう。においは「自己表現」であると同時に「社会的共有物」でもある。控えめにすることが、大人のマナーだ。
人はにおいから逃げられない生き物だ。嫌なにおいに悩まされる一コマも、見方を変えれば「人と人との距離感」を考えるきっかけになる。とはいえ、エレベーターでは今日も「犯人だと疑われる危険」と闘わねばならないのだが。
バジルは種を抱き、タイムとローズマリーが香る午後。小さな我がバルコニーの秋
バルコニーの花は終盤戦か。「もうちょっと頑張って!」と声をかけたくなるのは、自分自身にかもしれない
武田 彰
滋賀県生まれの団塊世代。京都産業大学卒業後日本を脱出。ヨーロッパで半年間過ごした後シアトルに。在シアトル日本国総領事館に現地職員として39年間勤務。政治経済や広報文化などの分野で活躍。ワシントン大学で英語文学士号、シアトル大学でESL教師の資格を取得。2013年10月定年退職。趣味はピックルボールと社交ダンス。