シアトルに住んでいた時、よくベルビューのゆきこさんのところにマッサージに通って疲れを癒していた。彼女に健康上の不安を訴えると、「武田さん、心配しすぎよ」とよくたしなめられたものだった。今でこそ自由気ままなシニアライフを送っている私だが、実は大変な心配性であったのだ。
在職中はつねに自分の言動に失敗がないかアレコレ考え、思い悩み、思い切ったことができなかったように思う。退職後は職場の掟に縛られることがなくなったわけだが、新たに得たはずの「自由」の範囲については今でも明確ではない。ただ確実に言えるのは、以前に比べて自分の言いたいことや不平をはっきり声に出せるようになった。
例えば私は、相手がビジネスであっても電話で質問することや、レストランのサーバーにオーダー以外のことを頼むのを躊躇してしまう性格だ。何事にも、相手とのやり取りで自分に落ち度はなかったか、嫌な思いをさせなかったかと後になってクヨクヨ考えてしまうのだ。
しかし今は、自意識を殺して「Just do it」と自分に言い聞かせることにしている。たとえ後悔するような結果になっても、過ぎたことだから仕方ないとすぐに忘れることができるようになった。私はそんな自分を無責任になったのだとは思わない。
私がただひたすらに失敗を恐れていたのは、日本社会全体が失敗を過度に嫌う傾向にあり、自分も知らず知らずのうちにその影響を受けていたからではないだろうか。いつも人から見られているという自意識が転じて、自分が他人の言動を見聞きする時も、まず人の荒探しをしてしまう癖がついていたように思う。
今思えば私が日本を出たのは、「よく失敗する自分に、日本社会の失敗を許さない重苦しい空気は合わない」と体感していたのも大きな理由のひとつだったかもしれない。
友人がフラダンスを習っていて、先日そのお披露目会に行ってきた。しかしいつの間にか自分の目は「彼女は失敗しないだろうか」ということのみに焦点を当て、不安な面持ちで彼女の晴れ姿を見守っていたのだった。少し経ってからそのことに気がつき、「ああ、もう荒探しをする必要はないのだ」とあわてて頭を切り替えた。彼女は努力の成果を出そうと精いっぱい頑張っているのだから、失敗をとがめることなんかより、よくできたところを見るようにした方がお互い幸せなのだ。彼女は素晴らしい
ダンスを踊りきり、私は大きな拍手を贈った。
「失敗は誰でもするもの」ということが、私はこの年になってようやく理解できるようになったようだ。ということは、失敗してもそんなに後悔する必要はない、誰も初めから失敗しようと思って事に当たる訳ではなく、結果的に失敗に終わっただけ。遅ればせながら今後は、自分の失敗を責めないだけではなく、他人の失敗も責めないようにしようと思う。世間の祖父母が概して孫に甘いのに似てか、これも年の功というものなのだろう。
[カナダで再出発]