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松本 康樹(やすき)さん〜エンコンパス・ジャパン株式会社社長

エンコンパス・ジャパン株式会社社長
松本 康樹やすきさん

©Emilie Shen

歴史に名を刻むIT界の巨匠に囲まれ、マイクロソフト本社初の日本人社員として日本支社創設に尽力した松本康樹さん。長年、アメリカのソフトウェアの日本進出を支えてきたそのフロンティア精神は、日本の優れた製品を世界に発信する新たな挑戦へと向かっています。数々のスタートアップ企業やインターン生の良き指導者として駆け抜けた半生と、今も続く挑戦に迫ります。

取材・文:加藤 良子 写真:本人提供

松本康樹■1953年、三重県生まれ。関西大学機械工学科、ポートランド州立大学大学院数学科を卒業。1982年、米国マイクロソフトにCOBOLコボル システムエンジニアとして入社し、日本法人設立を担当。韓国・台湾法人設立支援、極東製品開発マネジャーを務める。1991年にDBCテクノロジー社、1995年にエンコンパス・グループ社、2021年にエンコンパス・ジャパン株式会社を設立。現在は、自身が立ち上げた事業の経営の傍ら、トランスコスモス株式会社で特別顧問を兼任。

故郷と両親の背中が育んだ原点

自然豊かな三重県津市でのびのびと育った松本さんは、子どもの頃、4歳上の兄と川釣りや昆虫採集を存分に楽しんだ思い出がある。実家は雑穀問屋の「松本商店」を営み、主に大豆を豆腐店に卸していたため、食卓にはもらい物の豆腐や油揚げばかりが並んでいたという。夏休みには卸業のため早起きし、津市から尾鷲おわせ 市までの往復180キロをはじめ、三重県全域を2トントラックで走った。60キロもある大豆が入った麻袋を担いで運ぶなど、さまざまな重労働をこなし朝から晩まで働く両親の姿を見て、松本さんは働くことの厳しさを肌で感じていた。

母の好子さん、兄の秀樹さんと共に

ポートランド州立大学大学院数学科を卒業

高校を卒業すると、父の勧めもあり関西大学機械工学科に進学。兄は同校の電気工学科を専攻したが、これにはいずれ豆腐を機械で量産し、息子2人と家業を大きくしたいという父の思惑があったらしい。父の夢とは裏腹に松本さん自身の関心は薄かったものの、在学中にその後の人生を左右する学問との出合いを果たすことになる。

大学2年のとき、国際青少年交流協会のプログラムを通じてアメリカへ。ボストン滞在中にタフツ大学でコンピューターサイエンス(CS)を教える教授の家に滞在した経験が、CSへの興味のきっかけとなる。西海岸がこの分野の最先端と知り、両親を説得してポートランド州立大学大学院へ留学。当時は為替が1ドル360円と高値だったため、日本人学校講師や大学のティーチング・アシスタント、くるみ農園での収穫作業など数々のアルバイトで学費を賄い、修士課程を優秀な成績で修了した。この経験は、松本さんにとって大きな自信となった。

マイクロソフト本社で初めて雇用された
日本人プログラマーとして

1979年、日本の大手家電メーカーにソフトウェア開発エンジニアとして入社するも、頭の中は常にコンピューター事情でいっぱいだった。そんな中、専門誌でマイクロソフト社の存在を知り、アメリカでプログラマーとして働きたいという夢が大きくなっていった。約2年で退職し、両親の支援を受けつつも貯金をはたき、留学生として再びポートランドに渡り、就職活動を開始した。

渡米後、松本さんは履歴書を手にマイクロソフト本社を訪問。その日は誰にも会えなかったが、1週間後に面接の案内が届き、運命の二次面接へと駒を進める。そこに現れたのは、ワードやエクセルの開発者であるチャールズ・シモニー、ポール・アレン、そしてスティーブ・バルマーといった伝説的人物ばかり。アレン氏から出題されたプログラミング問題には実務経験のおかげで無事に答えることができた。後日、年俸2万2,000ドルでの採用通知が届く。年収は下がったものの、マイクロソフト本社に雇用された初の日本人社員として、希望に胸を膨らませた。松本さんはこのときのことを、運が良かったと謙虚に振り返る。当時人事部長として採用をしてくれたバルマー氏や、アメリカでの挑戦を理解し送り出してくれた両親に、心から感謝しているという。

1997年のシアトル・ポスト・インテリジェンサー紙の記事より。マネージングディレクターのウェイン・ウェイジャー氏、クレイグ・マッカラム氏、スコット・ランド氏と共同でエンコンパス・ベンチャーズ社を設立。写真は、クレイグ氏と共に撮られたもの

この頃のマイクロソフト本社は社員100人ほどの規模で、学生寮のような活気に満ちていた。映画館を貸し切り全社員で映画鑑賞をした思い出もある。誰もが高いモチベーションを持ち、朝から晩までプログラム開発に没頭する日々。上司にも臆することなく意見を述べ、失敗を恐れずに挑戦できる環境だった。ゲイツ氏もまた、偉ぶることなく常にオープンな姿勢で社員と議論を交わすリーダーだったという。松本さんはほかのプログラマーに負けまいと必死に開発に取り組む毎日を送った。

ビル・ゲイツから直々に受けた、日本支社設立の辞令

入社から3年経った1985年12月、松本さんの元に、ゲイツ氏直々の辞令が下る。マイクロソフト日本法人設立のプロジェクトを指揮せよというもの。始動からわずか3カ月で設立するという無謀ともいえるミッションだった。プログラム開発の仕事で達成感を得ていたが、自分にしかできない業務を探したいという思いもあり、日本支社設立を率いる3名の担当者の1人としてこの大役を引き受けた。

マイクロソフト社で3年間勤務した記念に贈られた、当時のロゴと名前が刻まれたペンスタンドは、今も大切にしている思い入れの深い品

80年代半ばから90年代、日本のパソコン産業は発展段階にあり、大手家電メーカー各社が独自のハードウェアを販売していた。当時日本は、アメリカ国外ではドイツに次いで世界第2位の市場規模を持ち、マイクロソフトにとって重要な地域だった。販売窓口を担っていたのは、海外ソフトウェアの紹介・販売で知られる出版社、株式会社アスキー社だ。

当時の日本市場では他社ブランドを通じて提供するOEM戦略を主流としていたため、マイクロソフトの認知度はまだ高くなかった。そのため都内の大手銀行での口座開設やオフィス物件探しに苦戦。ようやく見つけた千代田区三番町の事務所を拠点にスタートを切った。なかでも課題となったのが、人材の確保だった。松本さんは、日本支社に開発部門を設置するという使命を託されていた。これは当時の外資系企業としては珍しい方針であり、日本の技術力を高く評価したゲイツ氏の意向によるものだった。しかし、経済成長の真っただ中にあった日本において、知名度の低い外資系企業への転職を望む働き手を集めるのは困難を極めた。最終的に、当時連携していたアスキー社でマイクロソフト関連業務に携わっていた優秀な社員こそ、この挑戦に最もふさわしい人材だと確信。迷うことなく18名に声をかけ、入社してもらうことができた。日本マイクロソフトの立ち上げという未知の挑戦に共に飛び込んでくれたことが本当に嬉しく、感謝の気持ちでいっぱいだった。

松本さんは毎日顧客を訪問し、現場の声に直接耳を傾けることから始めた。本社から派遣された上長として、平均年齢の若い社員を率いて銀行やメーカーへ奔走する場面が多々あった。設立直後、社内全体に占める日本支店売上の割合は小さかったものの、Windows95の登場で一気に成長期に入り、米国に次ぐ第2位の売上高を誇るほどの変貌を遂げた。

その後、韓国と台湾支店の設立支援にも従事し、製品開発マネジャーとしてアジア展開に貢献。時を同じくしてマイクロソフト本社はアメリカでのIPO(上場)を果たし、巨艦企業としての存在感を放ち始めていった。

1991年には社員数が8,000人を超え、会社が大きくなるにつれて全体像が見えにくくなり、松本さん自身のやりたいことが思うようにできなくなっていった。英語力やプログラミング力でほかのエンジニアにかなわないかもしれないとさえ感じるようになり、日本人としての強みを活かしソフトウェアの日本語化に特化した会社を立ち上げ勝負したいという思いが芽生えていった。永住権取得のきっかけを与えてくれたゲイツ氏や会社への恩義もあり簡単な決断ではなかったが、自分を信じ起業の道を選んだ。

「マイクロソフトを辞めることに不安はなかったか?」と尋ねると、「なかった」と即答。業界における先見性に自信があった松本さんは、投資家・ビジネスマンとしての新たなキャリアを歩み始めた。

日本のパソコン普及の礎を築いたキーパーソン

マイクロソフト退社後、アメリカのソフトウェアを日本市場向けに翻訳・販売する事業を展開すべく、DBCテクノロジー社をシアトルに設立。最初の仕事は、コンパック(現ヒューレット・パッカード社)が販売するIBMのパソコン互換機ごかんき (部品やソフトウェアなどを、他社のものと置き換えても問題なく作動させるための機器)の日本進出支援だ。

当時、日本のPCメーカーは各社のソフトウェアを独自規格で販売していたため、互換性を得るにはプログラミング言語を使って手直しする必要があり、パソコンは専門知識のある層にしか届かなかった。しかし、日本IBMが日本語化したOS「DOS/Vドスブイ 」と互換機を発売したことで、アメリカに続き日本でも、メーカーの異なるパソコンとソフトウェア間の互換性が実現。米IBMが互換機の仕様を開示したことで多くのメーカーが市場に加わり、その筆頭が米国最大手のコンパックだった。

松本さんは半年間、本社のあるヒューストンに滞在し、コンパックの日本市場進出を支援。結果的に日本ではメーカー各社のPC価格が急落し、多様なソフトウェア開発メーカー参入を後押し。PC普及の基盤が築かれた。このことは「コンパックショック」と呼ばれ、日本のIT業界に激震が走るほどの衝撃を与えた。

新たなビジネスモデルに捧げた、投資家人生

DBCテクノロジー社は事業拡大を目指したが、資金的限界から他企業との合併・買収も視野に入れるようになった。そんな折、日本のITアウトソーシング企業の大手であるトランスコスモスから、日興証券の関連会社との合弁事業として投資会社設立の話が持ちかけられた。1995年にエンコンパス・グループ社、続く1997年に傘下のエンコンパス・ベンチャーズ社を設立し、米国IT企業のアジア進出支援を開始。さらに、トランスコスモスUSA社(現トランスコスモス・インベストメンツ・アンド・ビジネス・デベロップメント社)の社長兼トランスコスモス株式会社の副社長を経て、特別顧問として投資ビジネスに本格的に乗り出していく。

松本さんの展開したベンチャーキャピタル(VC)事業は、投資リターンの追求より投資先のスタートアップ企業のメリットに重点を置いており、日本市場への導入、戦略策定、製品開発、ビジネスパートナー探しまで一貫してサポート。こうした独自のビジネスデベロップメント型投資モデルは競合VC企業との連携もしやすく、多くの投資機会に恵まれた。

この時代は「Web1.0時代」と呼ばれ、HTMLなど誰でも自由に利用できる技術を使うことでウェブサイトを作るハードルが下がった頃だった。多くのスタートアップが出現し、上場(IPO)してはあっという間に消えていくなか、1995年にはネットスケープのIPOやアマゾン設立、1998年にはグーグル設立と、デジタル革命の夜明けを迎えていた。便利なEコマースやポータルサイトを低予算で簡単に開発できるようになったことで迅速に事業を立ち上げることができ、さらに大手企業に買収される可能性も出てきていた。VCによる積極的な投資も増え短期間で利益を得るチャンスがあったが、参入障壁が下がったことで競争が激しいという課題もあった。

これらの特性を踏まえ、ITスタートアップ企業が生き残る道は、大手企業による買収か、株式上場のいずれかであると松本さんは語る。かつては上場し自らが業界の中心になることを目指す会社も多かったが、超巨大IT企業の目覚ましい発展に伴い、大企業に買収されるケースが増加していると指摘する。買収されたほうが上場するより早く資金を回収できるため、最初から会社を売却することを前提とした経営戦略が主流になってきているのだ。

松本さんはネットバブルのさなかでも、的確な支援と確実なリターンを得ることができたと自負している。長年の経験から、VC投資には市場ニーズに合った戦略、優れた製品開発力、そしてスピード感が不可欠であることを痛感。投資の出口戦略の難しさも経験したが、中には投資した企業が大手IT企業へ2億ドルで売却に成功したこともあった。

アメリカ市場を切り開く、日本の製品

長年、アメリカのソフトウェア企業の日本進出を支援してきた松本さんだが、現在はその経験を活かし、IT分野に留まらず、日本の食品や伝統工芸品をアメリカ市場に紹介する新たなミッションに挑んでいる。2021年にエンコンパス・ジャパン株式会社を立ち上げ、青森の組子細工や熊本の畳を使ったヨガマットの市場展開支援など、日本の伝統文化と現代デザインを融合させたユニークな提案を生み出している。

八戸市と協働で出店したフードイベントでは、インターン生と進めている八戸市のあんこ販売プロジェクトの一環として、自ら「青森県」と書かれたはっぴを羽織り、試食を配った。日本文化への関心が高く、外食に費用をかける人が多いシアトルは、テストマーケティングに最適な地だと言える。業界の先駆者として輝かしい功績を持ちながらも、今なお最前線で顧客に寄り添う姿勢を忘れない。それこそが、松本さんの哲学なのだ。

近年は、宮内庁御用達の漆器店である山田平安堂とともに、漆塗りの伝統工芸品をアメリカに普及させる事業に注力している。この事業は5年以上にわたり販売に苦戦してきたが、全米各地への出張やメーカーとの交渉を重ね、ニューヨークの化粧品メーカーの口紅容器やシアトルのギャラリーショップ「KOBO」でも取り扱われるようになり、確実に販路を広げている。シアトル発の高級チョコレート専門店「フランズチョコレート」の商品に漆が採用された際、創業者のフラン氏が日本の伝統工芸に深い理解と共感を寄せてくれたことは、大きな励みとなったと語る。こうした経験から、漆の器はアメリカでは作品単体としてよりも、中に入れる品を際立たせる器として受け入れられやすいことを実感したという。

2015年、フランズチョコレートの創業者フラン氏と共に。本社兼主要製造・販売拠点のジョージタウン店にて、日本から漆器塗りの職人を招き、漆塗り体験イベントを開催

次世代への架け橋として

2023年12月、青森県宮下知事表敬訪問。2022年3月より、海外経済協力員として、八戸市の商品の海外展開に関する各種事業に協力・支援を行っている

エンコンパス・ジャパン株式会社のユニークな側面として、インターン生に積極的に実務経験を提供している点も挙げられる。これは、日本の若者や技術者の市場価値や社会的評価を高め、思い切って米国市場に飛び込んでほしいという願い、そして将来、彼らがいつか「Made in Japan」の素晴らしい企業を創出できるよう支援をしたいという思いが込められている。漆の販売事業では、インターン生自らがクラウドファンディングで3万ドルを集め、歴史や職人技について英語で紹介する本の出版を手がけたこともあった。

松本さんは、若い人にはたとえ失敗を繰り返しても成功するまで挑戦を続けてほしいと話す。高度経済成長期やIT黎明期れいめいき は何もかもが手探りで、いろいろ試し、失敗してなんぼという風潮があった。しかし、経済が成熟した現代社会において、若者たちは新たなプレッシャーにさらされている。成功はもはや「最低ライン」と見なされ、企業にいても、あるいはリスクを取って新たな事業に挑んでも、失敗は許されないという重圧の中で生きている。恵まれているように見え、選択肢は限られる。だからこそ、彼らに挑戦する経験ができて良かったと言われると、もっとチャンスを作ってあげたいと思うのだ。

こういった学生を支援する機会を提供している日本人留学生を支援する株式会社ICCコンサルタンツやワシントン大学、ベルビューカレッジには、深く感謝していると話す。

松本さんには、大切にしている言葉がある。エレノア・ルーズベルトの「未来は自分の夢の素晴らしさを信じる人のものである」だ。この言葉を体現するかのように、しなやかなバネのような折れない心持ちで多くの挑戦を重ねてきた。次世代にチャンスを与える松本さんの投資の物語は、これからも続いていく。その開拓精神は、未来に起こる数々のイノベーションへとつながっていくのだろう。

2023年8月、ワシントン州日米協会(JASSW)100周年記念イベント「Celebrate Washoku」にて、日本の和食文化を伝えるべく、フランズチョコレートの商品と山田平安堂の漆の菊皿を特別に提供した