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War Bride〜「戦争花嫁」と呼ばれて〜 関根楢千代さん

箱入り娘から一転、アメリカでの波瀾万丈な人生
関根楢千代さん

ボランティアを務めるワシントン州日本文化会館JCCCWでミキさん右と
シアトル日系人会の副会長を務める関根楢千代(ならちよ)さんは、ボランティア、そして大好きな庭仕事と、忙しい毎日を送っています。日本ではカトリックの学校で育った「お嬢さま」。「シスターになるよりも、この一生のほうが良かった」と話す楢千代さんの人生の軌跡を追います。
取材・文:加藤瞳

修道院か結婚か

生まれは田園調布。戦前にアメリカで学んだ父が牧場経営をしていた。当時、開発前の田園調布は今では考えられないほど、牧歌的な風景が広がっていた。横浜紅蘭女学校(現・横浜雙葉ふたば学園)に初等科から高等女学校まで10年間通い、カトリック教育を受けた。終戦後、空襲から立ち直ったばかりの聖心女子学院の芙蓉ふよう寮英語専攻科に入学。学内での生活や、シスターとの会話はほぼ全て英語だった。卒業後は聖心学院幼稚舎の教諭として働いていたが、1年ほど経った頃、父が広島県の江田島米軍基地内購買部で写真店を開業することになり、その手伝いをするように。そこで、父と親しくしていた陸軍のピート・ラトリッジさんと知り合う。「修道院に入ろうと思っていたから、結婚なんて全然考えていなかった。教会にばかり行っていたの」

生まれたばかりの長男レイさんを抱いて広島県江田島にて

そのうち、ピートさんとは船や自転車で一緒に出かけるようになった。何もない場所だったが景色は美しかった。父は、ピートさんとの結婚に全く反対をしなかったそうだ。「あの頃、日本には何もなくて大変な時代だったでしょう? 父はアメリカを知っていたから、将来性があると思ったみたい」。しかし、プロポーズを受けた楢千代さんは、修道女になるべきか、結婚をすべきか悩む。代母(カトリックの洗礼式で神との契約の証人として後見人となる人のこと)に相談すると、「修道院に入るよりも、結婚をしたほうが大変な苦労をするから、人間が豊かになる」と助言をもらった。「ああ、そういうものかしらと思って。確かに修道院に入れば、何も悩まず、ただお祈りしていればいいのだから楽ですよね」

1950年、神戸の米国総領事館で結婚をし、江田島で長男のレイさんを身ごもった。出産には、神戸の米軍病院に行く必要があったが、入院が間に合わず、江田島で産むことに。1952年3月、生後間もないレイさんを抱え、横浜から軍の船に乗り、ピートさんと共にアメリカへ向かった。

試練の船旅

「350人くらい、ウォー・ブライドが乗っていたの。私とあと3人くらいのほかは、みんな夫は一緒ではなく、ひとりだった」。乗船していたほとんどは、夫となった米兵が先にアメリカに帰ることになり、あとから「呼び寄せ」としてアメリカに向かった女性だった。夫とは別々の船室。長い間、カトリックの学校で閉ざされた生活をしていた楢千代さんにとって、船中での14日間は過酷なものだった。「初めて親から離れたものですから。いろいろな環境で育った方がいて、乱暴な言葉遣いにドキッとしたり、子どももいたからオムツを洗わなくてはいけなかったり。船酔いはするし、夫とも会えずに心細かったですよ」

アラスカでサンクスギビングのパーティー右から次男のロイさん楢千代さん夫のピートさん長男のレイさん

到着地はシアトル。「みんなに汽車の切符が渡されました。それで翌日に出て行くんです。言葉もわからないし、ただ切符だけ渡されても、どうやって行ったらいいかわからず、困った人がいっぱいいたと思いますよ」。楢千代さんの場合は、ピートさんが車を買い、カリフォルニア州の母の元へ向かった。しかし、その他の女性には大変な旅路の始まりだっただろうと楢千代さんは振り返る。「無事、会えなかった方もいるんじゃないですかね」

アメリカでの日々

1952年に移ったアラスカ州で、初めて日本人の友人ができた。今も大親友のミキ・ハイダーさんだ。「初めて日本人と会ったの。うれしかったね」と思い返す。やがて次男のロイさんが生まれた。「日本の物がなかったから、苦労しました。みんなで豆腐を宇和島屋から注文したこともありました。でも飛行機で揺られて来たから、開けてみたらグズグズになってて……もう笑っちゃったよ!」。その後加わったもうひとりの戦争花嫁、通称ケイティーさんと、3人で一緒に学校に通って市民権を取ったり、交代で車の練習をして運転免許を取ったり、大騒ぎしながら楽しい日々を過ごした。当時、開拓間もないアラスカでは、99年経過の後、居住していた場所の土地をもらえる、というホーム・ステッド・アクトという法律が有効だった。そのため、ふたりは今もその証書を持っていると言う。「120歳まで生きて、アラスカへ一緒に行こうか!」と、 ミキさんと話している(注:ホーム・ステッド・アクトは本来、その土地を開拓し、定住していることが条件)。

アラスカで隣人と手前の少年が長男のレイさん奥が次男のロイさん

初めて子どもを連れて日本へ帰ったのは、1959年のこと。「ロサンゼルスにいた時だったかな。その時は大変だったわよ。36時間かかったんだから。プロペラ飛行機で、途中の島でガソリン入れて」

1978年、楢千代さんは、長年連れ添ったピートさんと離婚する。日系の商店で働き始め、セーフウェイに移ってからはレジ係をして生計を立て、そのまま定年退職まで勤め上げた。「その頃はいちばんお金になる仕事だったの。仕事で日曜もなかった」

楢千代さんは自身の人生について、これで良かったと感じている。「日本にいたら、こんなにいろんなことをしていないと思う。私は13年間、シスターからの教育で『なんでも我慢しなさい』と教え込まれた。それが頭にあるから、何かあってもすぐに、神の思し召しだから我慢しましょうっていう考えになれた。だから、あんまり苦労しなかったみたいな気がする(笑)。修道院に入っていたら、今のように友だちはできなかったし、何も知らないままだったと思います」。波乱万丈を乗り越え、今は、ミキさんや仲間と笑顔で毎日を過ごしている。

War Bride 〜「戦争花嫁」と呼ばれて〜
タコマ日本人コミュニティー教会の皆さん
ツチノ・フォレスターさん
関根楢千代さん
コラム「アメリカへ渡った日本人『戦争花嫁』」