日系3世のブルース・ミヤハラさんは、これまで医療畑ひと筋の半生を歩み、シアトルの地域医療に貢献。退職後は一転、ボランティア料理人となり、慈善事業のライス・フォー・オール・コレクティブ発起人として、アジア系住民の食と健康の充実に奔走しています。異なる分野をまたいでのブルースさんの活躍ぶりに、生粋のシアトルっ子の生き様が表れます。
取材・原文:イレーン・イコマ・コウ 翻訳:大井美紗子 写真:本人提供、北米報知スタッフ
ブルース・ミヤハラ(BruceMiyahara)▪️シアトル出身の日系3世。ワシントン大学大学院にて公衆衛生学を学び、地域医療に従事。キング郡保健局長、ワシントン州保健局長などを歴任した。退職後はシアトルの蕎麦店、かもねぎでの調理ボランティア、ライス・フォー・オール・コレクティブ発起人と、食の分野へ。コミュニティー活動の場をさらに広げている。
@older_than_i_5_OG-san
シアトルの一等地で過ごした幼少期
自身のSNSアカウントで「OG-San(オジサン)」を自称するブルースさん。1969年のI-5開通前からのシアトル史を知る生き字引だ。
父方の祖父母は広島県出身で、ブルースさんの父である長男のヒロさん、次男のタクさん、長女のリアさんと、3人の子宝に恵まれた。州都オリンピアへ移住した当時は、日系移民の多くが生業としていた牡蠣牡蠣 の養殖に携わり、やがてシアトルに移ると、日系コミュニティーからのビジネス支援を受けてダウンタウンでホテル・アパート経営に乗り出す。酒場の上に位置する古めかしいホテルは、禁酒法時代(1920~1933年)にジンの密造に使われたバスタブが残り、腐食が進んでいた。ブルースさんは、祖父母がかなり手を焼いていたことを今も覚えている。次に着手したベルタウンのラトーナ・ホテルは後に、並びのエース・ホテルと共にシアトル市の歴史建造物として認定を受けた。
母方の祖父母は静岡県、東京都、千葉県を転々とした後、ワシントン州にやって来た。ブルースさんの母である長女のキヨさん、長男のトッシュさん、次男のジョージさんはシアトル生まれだ。祖母は結核で早世。戦中は他の西海岸の日系人同様に、家族全員がミニドカの強制収容所に連行された。祖父はシアトルに戻って再婚後、グリーンレイク近くに温室を持ち、花や野菜をパイクプレイス・マーケットで販売するように。続いて設けたアーリントン・グリーンハウスは長男のトッシュさんが受け継ぎ、ビジネスを成長させた。
ブルースさんは母方の祖父母のことを「グリーンハウスのジイチャン・バアチャン」と呼んで慕い、亡き母、キヨさんとよく訪ねた。別の親戚も野菜売り場を持っていたパイクプレイス・マーケットや、宇和島屋のあるインターナショナル・ディストリクト(以下ID)周辺にも頻繁に出向いた。ブルースさんが小学校に上がるまで、まさにシアトルの一等地に住み、ダウンタウンを庭としていたブルースさん一家。しかし徐々に地価が上がり、古くからの住民は引っ越していった。ブルースさん一家も例外ではなく、1956年頃にはアパートを出て、キャピトルヒルへ、I-5建設が始まるとビーコンヒルへと居を移すこととなる。
アジア系コミュニティーを守りたい
市内のフランクリン高校に入学後は、州内で名の通るジャズ・バンドのナイン・ライブスに所属。卒業すると、ワシントン大学による経済的困難を抱えたマイノリティー家庭のための教育プログラム(Equal Opportunity Program)を利用して、同大学の医学部に進学。建築学、生物学、植物学も学んだが、どれもぱっとしない。ブルースさんはナイン・ライブスでの活動を続けつつ、ビーコンヒルで週1回、夕刻に開かれる無料のクリニックで医療ボランティアを始めることにした。現在、ショアライン、ベルビューなどにまで規模を拡大するインターナショナル・コミュニティー・ヘルス・サービス(ICHS)の前身となるクリニックで、そのICHSを立ち上げたメンバーのひとりであるジャニス・コウ・フィッシャー氏と共に働いた。
収入や医療保険、文化、言語などさまざまな理由で一般的な医療サービスを受けることが難しいアジア系住民を助けること──それがクリニックの使命だった。ここに来れば、患者は母語と英語の2カ国語で診療を受けられる。ただ、全てがボランティア、有志の手弁当で運営されている分、資金面では苦労が多かった。診療スペースは、院長のユージン・コウ医師の厚意でジェファーソン・パーク・クリニックの一部を間借りしていた。
その頃、IDの日系コミュニティーは、崩壊の危機にあった。戦中の日系人強制収容によって、日本町を中心に築かれた日系コミュニティーはすでに大打撃を受けていた。I-5敷設で地域は真っ二つに分断され、加えて複合ターミナルやキングドームの建設といった大規模プロジェクトも進められ、追い打ちをかけた形だ。ブルースさんら日系、アジア系の若者、そして民族や所属グループの垣根を超えて活動家、支援者が集結し、組織的な建設反対運動へと発展した。
「反対運動と言っても、食と切り離せないのが、いかにもIDらしいところ。思い出深いのは、ダニー・ウー・コミュニティー・ガーデンで行われた豚の丸焼き大会です。伝説的な存在だった市民活動家のボブ・サントス、通称アンクル・ボブと企画しました。アンクル・ボブとは、行きつけのバーでよくビールを飲んでいましたね」
もともとIDのようなマイノリティー住民の多い地域は、公共サービスが行き届いていなかった。前述のビーコンヒルのクリニックも、ボランティア頼み。ブルースさんらは行政からの資金援助を訴え、キング郡の議会議員、ワシントン州やシアトル市の補助プログラム、はたまた国の看護師向け助成金など、ありとあらゆる方面へ根気強くアプローチした。そして1975年、ついに努力が実り、インターナショナル・ディストリクト・コミュニティー・ヘルス・センター(後のICHS)がIDに誕生。ブルースさんはその初代事務局長を務めた。
実務を通して組織の方針設定や経営に興味を見出したブルースさんは、ワシントン大学の大学院へ進み、公衆衛生学における衛生管理とプログラム計画について学ぶ。そして、シアトル・キング郡公衆衛生局で刑務所の衛生管理官の職を得ると、やがて地域保健サービス部門の部長となり、HIV/エイズ対策プログラムの計画に尽力。さらにはキング郡保健局長、ワシントン州保健局長にまで登り詰めた。マイク・ローリー州知事の下、局長に就任して最初の月に起こったジャック・イン・ザ・ボックスでの大腸菌集団感染で、ブルースさんは外食産業と大きな接点を持つに至る。
転機となった名シェフたちとの出会い
ブルースさんは幼少期から食に興味を持ち、「いつか本格的に料理の勉強をしたい」と常々思っていた。退職後にレストラン業界へ転じるきっかけとなったのは、シアトルを代表するシェフ、トム・ダグラスさんが主宰する1週間の料理サマー・キャンプだ。妻のダナさんの熱心な後押しもあって、夫婦で毎年のように通った。7年経った頃には、調理はもちろん、レストラン経営の極意から地元食材の重要性までを理解していた。
ほかにも影響を受けた料理人に、相馬睦子さんらがいる。ブルースさんが相馬さんに初めて会ったのも、前述のサマー・キャンプだ。相馬さんは蕎麦打ちの講師として登壇していた。それまでブルースさんが知っていた和食と言えば、すき焼き、照り焼き、天ぷらくらい。「私の知る限り、トップを行くクリエイティビティーを持つシェフ」と、ブルースさんは相馬さんを手放しで絶賛する。
当時、相馬さんがウォーリングフォードに出していた蕎麦店、雅フォーティーフィフスの門をたたいたブルースさん。2017年、相馬さんがフリーモントでかもねぎを開店すると、ブルースさんは助っ人を買って出た。それが料理の道への第一歩となる。相馬さんから任命されたのは「鴨つくね係」だ。「この6年間で、9万個はつくねを丸めたと思いますよ!」
2019年には姉妹店、般若湯 のオープニング・スタッフに。「今では日本酒の純米、本醸造、吟醸、生原酒、山廃の違いも説明できるようになりました」と胸を張る。
全ての経験を生かして
現在、ブルースさんは再び医療業界に軸足を戻しつつある。高齢者に住み慣れた場所で医療サービスを含めた包括的ケアを提供することを目的としたプロジェクト、AiPACEをご存じだろうか。ICHSにより2015年に提案され、高齢のアジア系住民が介護を予防し、進行を防ぎながら、安心して歳を重ねられるようにコミュミニティーをサポートする取り組みだ。
約1年前、ブルースさんはICHSの昼食会に招待され、同プロジェクトの高齢者向け食事プログラムのフロアプランを見せてもらった。そこにはキッチンと広々とした公共スペースが備わる。「これを活用しない手はない!」。ブルースさんは、いっそのこと食事と同時に食育もかなうコミュニティー・キッチンにできないか、とひらめいた。
「コミュニティー・キッチンでは、レシピの考案から材料の準備、調理、片付けまでの一連の作業を行います。これまでの経験上、寄付集めやチーム作りの手段として最適だと考えました。知人のシェフや食通の仲間たちは皆、強い関心を示し、協力を申し出てくれています」。こうして、ブルースさんの立ち上げたプロジェクト「ライス・フォー・オール・コレクティブ」が動き出した。
過去に開催された4つのイベントのうちのひとつは、ブルースさんに大きな影響を与えたシェフ、トム・ダグラスさんとエリック・タナカさんがスポンサーとなり、シリアス・パイのピザ店で行われた。シェフのメイジー・スチュワート‐クックさんが、フィリピン出身の祖母が作る思い出の味になぞらえたコース料理を振る舞った。
2つのイベントは般若湯が会場となった。最初のイベントでは、フィリピン系アメリカ人が営むグレイシーズ・パイズによるコース料理が並んだ。次のイベントは、ブルースさん自身が腕を振るい、特製の焼きおにぎりとお茶漬けを用意。かもねぎ、または近くに店を構えるピザ店、ルポでのカクテルの注文で、1杯につき1ドルの寄付が集まるようにした。4つ目のイベントは、ビーコンヒルにあるフィリピン・レストラン、ムサングのオーナー・シェフ、メリッサ・ミランダさんとのファンドレイジング企画だ。
懸念は、やはり資金面。「たとえば大型冷蔵室が3万ドル、中華鍋に対応するコンロに4万ドル、それに椅子やテーブル、食器、調理器具となると、100万ドルでも足りません。今は、食材の小売・卸売業者に援助を求められないかと思案中です。イベント開催には、食材の寄付や調理ボランティアを募る必要もあります」
医療と食、一見異なる分野でも軽々と結び付け、新たなコミュニティーを形成するブルースさん。この料理プロジェクトが軌道に乗れば、シアトルのアジア系住民の支えとなっていくことだろう。「今後も、それを実現するためのパートナーシップをどんどん組んでいきたいですね!」